日本放送協会の大河ドラマ「龍馬伝」は毎回20%を越える視聴率を上げ、好調のようです。一方で、自由民主党を離党した政治家が、みずからを薩長連合の功労者、坂本竜馬になぞらえて話題になるなど、竜馬人気の高さに気づかされる今日この頃です。前回に引き続いて、世界史のなかで竜馬の生涯をウォークしてみたいと思います。
安政3年(1856)日米和親条約に基づきハリスがアメリカ合衆国の初代駐日総領事として来日しました。秘書兼通訳のヒュースケンとともに玉泉寺に総領事館を開いた同年8月、竜馬も2度目の江戸遊学に向け高知を旅立ちます。竜馬はのちに土佐勤王党を結成する
竜馬が歴史の表舞台に登場してくるのは文久2年(1861)正月、武市瑞山の手紙を携え、山口藩(長州藩)に
翌年5月、姉の乙女にあてた竜馬の手紙は、よくその興奮を伝えています。「此頃は天下無二の軍学者勝麒太郎という大先生の門人となり、ことの外かはいがられて候て、まず客分のよふなものになり申し候。近きうちには(中略)兵庫という所にて、おおきに海軍を教え候ところをこしらへ」と、神戸海軍操練所の構想も書きこんでいます。
これは安政2年に創設された長崎海軍伝習所のさらに門戸を広げた施設を立ち上げ、攘夷を叫ぶ志士たちをも集めて航海術や船舶技術を学ばせ、海外に通じる海軍力を養成しようという、幕府や諸藩の枠を超えた構想でした。確かに当時の日本の海軍力はなきに等しいものでした。勝や竜馬がしばしば乗り組んで大坂や江戸を行き交った順動丸は蒸汽船ではありましたが、排水量わずか400トン余の外輪船でした。時間は前後しますが、万延元年(1860)に太平洋を横断した咸臨丸は625トン・砲12門、明治元年(1868)正月、鳥羽・伏見の戦で幕府軍が敗北したとき、大坂城にあった将軍徳川慶喜を乗せて江戸に帰還した最新鋭の開陽丸ですら2730トン・砲26門でした。諸藩が所有するものを加えても、幕末の日本の艦船数は110艘程度と推定されています。
それに比べて、日本周辺に配備されていた欧米の艦船は圧倒的でした。例えば、元治元年(1864)8月の四国連合艦隊下関砲撃事件に加わった艦船は軍艦だけで17艦、イギリスは旗艦ユーリアス(3125トン・砲35門)他9艘、フランスは旗艦セミラミス(3830トン・砲44門)以下3艘、オランダはジャンビ(2100トン・砲16門)以下4艘、アメリカは南北戦争のため日本海域には帆走軍艦ジェームズタウンしか配備していなかったので、蒸汽商船ターキャンを借り上げ、砲4門を積み込んでの参戦でした。その圧倒的な火力の前にたちまち下関海峡は制圧され、単純な攘夷の不可能さを悟った長州藩は、大村益次郎を登用して、本格的な軍事改革に乗り出すことになります(保谷徹『幕末日本と対外戦争の危機』/「歴史文化ライブラリー」吉川弘文館刊)。そんな状況を踏まえて、竜馬は商船活動へと舵をきったのかもしれません。海援隊へと通じる海路が見えてきました。