国史大辞典ウォーク知識の泉へ
毎回固有のテーマで、それぞれの時代における人間と事象の関わり合いを読み解いていきます。文中にちりばめられたキーワード(太字)は、『国史大辞典』の見出し語になっており、これらを手がかりにすれば、さらなる歴史の深みを味わうことが出来ます。

本連載は、『本郷』(吉川弘文館のPR誌 年6回発行)連載の同名コラムを改稿したものです。

第6回 世界史のなかの坂本竜馬(2)

2010年10月07日

日本放送協会の大河ドラマ「龍馬伝」は毎回20%を越える視聴率を上げ、好調のようです。一方で、自由民主党を離党した政治家が、みずからを薩長連合の功労者、坂本竜馬になぞらえて話題になるなど、竜馬人気の高さに気づかされる今日この頃です。前回に引き続いて、世界史のなかで竜馬の生涯をウォークしてみたいと思います。

 安政3年(1856)日米和親条約に基づきハリスアメリカ合衆国の初代駐日総領事として来日しました。秘書兼通訳のヒュースケンとともに玉泉寺に総領事館を開いた同年8月、竜馬も2度目の江戸遊学に向け高知を旅立ちます。竜馬はのちに土佐勤王党を結成する武市瑞山たけちずいざんらとともに高知藩の築地屋敷に住み、北辰一刀流の千葉定吉の道場に通います。武市は翌年に帰国しますが、竜馬はさらに1年江戸で修行し、「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられ、安政5年9月に高知へ戻ります。竜馬がこの2年間で尊皇攘夷派の間で、ある程度名前が知られるようになっていたことは確かで、帰藩して2ヵ月後には、大老井伊直弼により謹慎させられていた徳川斉昭の復権を目指して遊説ゆうぜいにやってきた水戸藩住谷寅之介すみやとらのすけらに伊予国との国境くにざかいの立川関に呼びだされ面談しています。ハリスも老中堀田正睦ほつたまさよしらと粘り強く交渉を続け、同年6月には日米修好通商条約の調印にこぎつけていました。日本にとって平和的な交渉ですすめるほうが、軍事力で屈服されるより有利だという避戦の論理は、実業家出身のハリスらしい見識で、この融和的な態度はイギリス大使オールコックとの対立を招くことになります。

 竜馬が歴史の表舞台に登場してくるのは文久2年(1861)正月、武市瑞山の手紙を携え、山口藩(長州藩)に久坂玄瑞くさかげんずいを訪ねたときあたりからです。そして、土佐に戻った竜馬は、その年の3月に地下浪人じげろうにん出身の沢村惣之丞と脱藩に踏み切ります。盟友武市瑞山は五言絶句に託して、竜馬の行動を次のように描いています。「肝膽元雄大 奇機自湧出 飛潜有誰識 偏不耻龍名」。まさしく「ひとえに龍の名に恥じぬ」大胆な行動でした。のくびきを離れた竜馬は、下関・大坂(大阪)・京都・江戸などの志士たちと交流し、10月には江戸幕府の軍艦奉行並であった勝海舟を訪ね、門人となったと言われています。実は海舟の日記に竜馬の名前が初めて出るのは同年12月29日のことで、入門の正確な時期は分っていません。ただ、この国際事情に通じた破天荒な人物の薫陶くんとうを受けて、竜馬がその視野を世界に向けて大きく広げていったことは間違いありません。

 翌年5月、姉の乙女にあてた竜馬の手紙は、よくその興奮を伝えています。「此頃は天下無二の軍学者勝麒太郎という大先生の門人となり、ことの外かはいがられて候て、まず客分のよふなものになり申し候。近きうちには(中略)兵庫という所にて、おおきに海軍を教え候ところをこしらへ」と、神戸海軍操練所の構想も書きこんでいます。

 これは安政2年に創設された長崎海軍伝習所のさらに門戸を広げた施設を立ち上げ、攘夷を叫ぶ志士たちをも集めて航海術や船舶技術を学ばせ、海外に通じる海軍力を養成しようという、幕府や諸藩の枠を超えた構想でした。確かに当時の日本の海軍力はなきに等しいものでした。勝や竜馬がしばしば乗り組んで大坂や江戸を行き交った順動丸は蒸汽船ではありましたが、排水量わずか400トン余の外輪船でした。時間は前後しますが、万延元年(1860)に太平洋を横断した咸臨丸は625トン・砲12門、明治元年(1868)正月、鳥羽・伏見の戦で幕府軍が敗北したとき、大坂城にあった将軍徳川慶喜を乗せて江戸に帰還した最新鋭の開陽丸ですら2730トン・砲26門でした。諸藩が所有するものを加えても、幕末の日本の艦船数は110艘程度と推定されています。

 それに比べて、日本周辺に配備されていた欧米の艦船は圧倒的でした。例えば、元治元年(1864)8月の四国連合艦隊下関砲撃事件に加わった艦船は軍艦だけで17艦、イギリスは旗艦ユーリアス(3125トン・砲35門)他9艘、フランスは旗艦セミラミス(3830トン・砲44門)以下3艘、オランダはジャンビ(2100トン・砲16門)以下4艘、アメリカは南北戦争のため日本海域には帆走軍艦ジェームズタウンしか配備していなかったので、蒸汽商船ターキャンを借り上げ、砲4門を積み込んでの参戦でした。その圧倒的な火力の前にたちまち下関海峡は制圧され、単純な攘夷の不可能さを悟った長州藩は、大村益次郎を登用して、本格的な軍事改革に乗り出すことになります(保谷徹『幕末日本と対外戦争の危機』/「歴史文化ライブラリー」吉川弘文館刊)。そんな状況を踏まえて、竜馬は商船活動へと舵をきったのかもしれません。海援隊へと通じる海路が見えてきました。

『本郷』No.87(2010年5月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第87回「世界史のなかの坂本竜馬」(2)を元に改稿しました