浅井三姉妹について前回まで書いてまいりましたが、お江(崇源院)と徳川秀忠のような政略結婚から幸せな婚姻生活を送った夫婦もあれば、豊臣秀吉とねね(高台院)のような糟糠の妻と夫として、曲折をへながらも心を通わせていた夫婦もあり、戦国時代だけでも様々な夫婦の姿を見ることができます。しばらく私たちも、歴史の中のカップルたちをウォークしてみようと思います。
古代の結婚は妻問婚といわれ、妻のもとに夫が通うという形が一般的でした。『万葉集』には大伴家持が妻となる大伴坂上大嬢に贈った「夜のほどろ我が出でて来れば我妹子が思へりしくし面影に見ゆ」など、妻問の姿を伝える和歌が多く残っています。お互いに求婚しあうことが当たり前の時代でしたから、女性が男性のもとへ通うこともあり、「思ひつつ居れば苦しもぬばたまの夜に至らば我こそ行かめ」といった女性の激しい恋歌を読むことも出来ます(義江明子著『古代女性史への招待』吉川弘文館刊)。
この万葉の時代を代表するカップルは、なんといっても天武天皇と持統天皇の二人でしょう。天武天皇は天智天皇の同母弟で、幼名は大海人皇子。姪に当たる大化改新の年に生まれた野讃良皇女(後の持統天皇)と結婚、壬申の乱に勝利を収め飛鳥浄御原宮で即位、「中央集権体制の確立に腐心し」(笹山晴生)ました。夫のあとをおって天皇となった持統は、「古代歴史に君臨したクイーン、名実ともに、日本女性の大物中の大物」(永井路子著『歴史をさわがせた女たち』/「文春文庫」)で、父と夫の遺業を受け継ぎ藤原宮への遷都、薬師寺の建立、『浄御原律令』の編纂にあたる……。
このように二人を紹介していくと古代史の重要事項ばかりで止め処なくなってしまいます。まさしく、「以来今にいたるまで、天皇家は千三百年に近い歴史をもつが、真に天皇家が政治の中心に立った時代は、持統の死とともに終わったと言ってよいであろう」(直木孝次郎著『持統天皇』/「人物叢書」吉川弘文館刊)。二人が歴史に残るカップルであったことにまちがいありません。
この二人のひ孫が聖武天皇、その后が光明皇后です。「青丹よし寧楽の京師は咲く華の薫ふがごとく今盛りなり」と歌われた平城京を舞台に生きた二人についても、長屋王の変、政権を動かしてきた光明皇后の兄、藤原武智麻呂ら兄弟四人も相次いで亡くなってしまった疱瘡(天然痘)の大流行、藤原広嗣の乱、国分寺の建立、東大寺の毘盧遮那仏造立、鑑真の来朝、施薬院・悲田院の設置など、このコラムもゴシック体ばかりになります。そして、二人の思い出の品々が現代の私たちに古代の息吹を伝えているというと、いささかロマンティックすぎるかもしれませんが、確かに正倉院宝物の数々は天平勝宝8年(756)6月21日に光明皇太后が、「先帝玩弄之珍、内司供擬之物」を東大寺に献納したことに由来しています(『東大寺献物帳』)。最後に皇后が天皇に贈った素直な相聞の歌を引いておきましょう。「我が背子と二人見ませばいくばくかこの降る雪の嬉しからまし(わが君とふたりで見るのだったら、どんなにこの降る雪が嬉しく思われたことでしょう)」。
さて、時代を源平の争乱期に移しましょう。ここにも源頼朝と北条政子、どちらも「将軍」と呼ばれ歴史を動かした大物カップルがいます。頼朝は現実の征夷大将軍、政子は後に呼ばれて「尼将軍」ではありますが……。平治の乱の後、伊豆国に流刑され逼塞の日々を送る頼朝と結ばれたのが、土地の豪族、北条時政の娘の政子でした。『吾妻鏡』には、当時を偲んで語ったとされる次のような言葉が残されています。「吾れに、芳契ありといえども、北条殿、時宜を怖れ、ひそかに引き籠めらる。しかるになお、君に和順し、暗夜に迷い、深雨を凌ぎ、君のところに到る」。
ここには情熱の迸るまま、恋する男のもとに走った中世の女性の激しい心根が現れているように思えます。そして、子供が生まれるたびに繰り返される夫、頼朝の不倫に、その都度激しく憤りながら、なかでも愛人亀の前の住居を打ち壊させた話は有名ですが、20年間にわたり鎌倉幕府の創世期を支え、さらに夫の死後は大御所を受け継ぎ、将軍をも凌ぐ政治力を示した彼女は、まさに「尼将軍」と呼ぶにふさわしい実力者でした(野村育世著『北条政子』/「歴史文化ライブラリー」吉川弘文館刊)。
そろそろ紙幅も尽きました。織田信長や豊臣秀吉、徳川家康なども登場する戦国時代の夫婦像については次回への持ち越しとさせていただきます。
『本郷』No.61(2006年1月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第61回「夫婦のはなし」(1)を元に改稿しました