国史大辞典ウォーク知識の泉へ
毎回固有のテーマで、それぞれの時代における人間と事象の関わり合いを読み解いていきます。文中にちりばめられたキーワード(太字)は、『国史大辞典』の見出し語になっており、これらを手がかりにすれば、さらなる歴史の深みを味わうことが出来ます。

本連載は、『本郷』(吉川弘文館のPR誌 年6回発行)連載の同名コラムを改稿したものです。

第19回 相撲のゆくえ(1)

2011年11月04日

 新大関琴奨菊がご当地柳川の出身ということもあって、大相撲九州場所(正式には11月場所と言うようです)は、久々の盛り上がりが期待されています。しかしながらマス=コミュニケーションでもしばしば取り上げられるように、新弟子や観客の減少など、「日本の国技」といわれる相撲が大きく揺れている状況に変りはないようです。果たしてこれからの相撲はどう変化していくのか、その今昔をウォークしながら、探ってみたいと思います。

 2人の人間が組み合う「相撲」のような格闘技は、古代から世界各地で行われてきました。日本でも弥生時代土偶古墳時代埴輪須恵器すえきなどに相撲を取る人々の姿が数多く残されています(『国史大辞典』第8巻別刷図版「相撲」参照)。和歌山県井辺八幡山いんべはちまんやま古墳から出土している力士埴輪は裸体に犢鼻褌とうさぎふんどし)をしめており、このスタイルが現在の大相撲にいたるまで、1400年ものあいだ続いてきたことに驚かされます。また、高句麗こうくり古墳壁画にも同じような姿で組み合う人物像が描かれていて、「相撲」がこの時代の東アジアに共通する武芸であったことが見て取れます。

 神話伝説としては、『古事記』の建御雷神たけみかずちのかみ建御名方神たけみなかたのかみの力比べや、『日本書紀』の野見宿禰のみのすくね当麻蹶速たいまのけはやの闘いがよく知られています。前者は大和政権の国家統一に関わる国譲り神話として理解すべきなのでしょうが、相撲技のルーツもほの見えています。腕を取り合うところは「手四つ」でしょうか、手を引き抜くのは「とったり」でしょうか、「小手投げ」でしょうか。後者では互いに足を上げて踏み争うのですが、これは大相撲で土俵入などに行われる四股しこを連想させます。民俗学では、足踏みという行為は地中の悪霊や死霊しれいを踏み鎮める最も神聖な動作ともいわれており、相撲の起源にはそうした呪術的要素が色濃かったことを示しています。

 『日本書紀』に相撲の記事が初めて登場するのが女相撲だったというと、土俵への女人禁制を唱える日本相撲協会には少し意地悪なことになるかもしれません。雄略天皇13年9月条に記されている、天皇采うねめび集め、衣裳を脱がせ褌をしめさせて相撲を取らせたという少しエロティックな逸話です。また、東アジアとのつながりを示す話としては、皇極天皇1年(642)7月に、百済くだらから来朝した使者智積と同年2月から在日していた百済の王族翹岐ちょうぎの前で、健児こんでいに命じて相撲を取らせたという記事があります。朝鮮半島の貴人たちの前で演じられる、列島各地から集められた兵士たちの相撲――それはおそらく百済でも行われていた儀礼的要素の強い格闘技でした。東アジアの大きな文化的つながりを感じさせるエピソードです(新田一郎著『相撲の歴史』山川出版社刊参照)。

 天武天皇11年(682)と持統天皇9年(695)には、隼人相撲はやとずもうが朝廷で行われたという記事が出てきます。この天武・持統朝期は、律令制の確立にともない隼人に対する支配政策が大きな転換期を迎え、一部の部族を畿内に移住させる分断支配が開始された時期にあたります。まさにその時に、天皇への服属を象徴する儀礼として、隼人による相撲が奉納されたのです。異族の強者の霊力が天皇の権威に取り込まれていく……。相撲は国家と結び付いたきわめて政治的な武芸でもあったわけです。

 こうした飛鳥時代の相撲を引き継ぎ、8世紀から400年にわたり、朝廷の年中行事ねんじゅうぎょうじとなっていくのが相撲節すまいのせちです。これは毎年7月、諸国から集められた相撲人が取り組む相撲を天皇が観覧する、農耕儀礼や服属儀礼に淵源を持つ国家的儀式でした。律令格式りつりょうきゃくしきの規定では7月7日をせちと定めていますが、『続日本紀しょくにほんぎ』には聖武天皇天平6年(734)7月7日に相撲を観覧したという記事が残っていて、この頃に相撲節は始まったようです。開催する場所は桓武天皇の時代は朝堂院、その後は神泉苑紫宸殿建礼門清涼殿武徳殿などとなっており、次第に内裏のなかで取り行われるようになります。平安時代末期に大江匡房おおえのまさふさ関白藤原師通ふじわらのもろみちのために撰述したとされる、有識故実ゆうしょくこじつの解説書『江家次第ごうけしだい』には、2、3月より諸国に号令して相撲人を集めること、相撲装束は「烏帽狩衣犢鼻褌也」、7月が大月だいのつきの場合は28、29日、小月なら27、28日に開催されたことなど、詳細に儀式の内容が記されています。すでにこの頃には儀礼的要素は薄れ、殿上人てんじょうびとたちが格闘家たちの武芸や奏される舞楽を華やかな饗宴とともに愉しむ、娯楽の要素の強い催事となっていたといわれています。その意味では、律令国家の衰退とともに相撲節が消えていくのも当然の成り行きだったのかもしれません。

 しかし、国家儀礼としての相撲節が廃絶した後も、相撲の人気は衰えを見せませんでした。今度は戦乱の世を武力で生き抜いてきた武士たちが、相撲の担い手として登場してくるのです。武芸のたしなみとしてだけでなく、相撲人たちのパトロンとしても大きな役割を果たしていきます。

『本郷』No.72(2007年11月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第72回「相撲のゆくえ」(1)を元に改稿しました