国史大辞典ウォーク知識の泉へ
毎回固有のテーマで、それぞれの時代における人間と事象の関わり合いを読み解いていきます。文中にちりばめられたキーワード(太字)は、『国史大辞典』の見出し語になっており、これらを手がかりにすれば、さらなる歴史の深みを味わうことが出来ます。

本連載は、『本郷』(吉川弘文館のPR誌 年6回発行)連載の同名コラムを改稿したものです。

第17回 夫婦のはなし(2)

2011年09月09日

 NHK大河ドラマ「江 姫たちの戦国」もいよいよ佳境に入り、徳川秀忠と3度めの結婚を果たしたお江(崇源院すうげんいん)が江戸城を舞台に、2男5女の子宝にも恵まれて、力を発揮していく姿がドラマチックに描かれています。お江についてはすでに「浅井三姉妹」の回で触れましたので、今回は戦国時代を様々に彩った「夫婦のはなし」をウォークしてみたいと思います。

 戦国大名婚姻にはどうしても政略の匂いがつきまといます。大名同士が同盟を結んだり、それまでの争いを止めて和睦したりするときには、一片の誓約書より確かなものとして、結婚という制度が利用されたのです。嫁を出す側は人質を差し出すというだけでなく、相手の情報を探るスパイを送り込むということでもありました。したがって、嫁を受け取る側も、武田信玄の定めた家法の「夫婦いっしょにありといえども、いさゝか刀を忘るべからず」とか「七人の子はなすとも女に心をゆるすな」(舞曲「鎌田」「景清」)といったように警戒をしていたわけです。

 織田信長と正室濃姫のうひめの場合も典型的な「政略結婚」でした。尾張国織田信秀美濃国斎藤道三どうさんは、下剋上げこくじようで領国を制した梟雄きょうゆう同士でした。国境を接していたため争いをくりかえしていましたが、天文17年(1548)に信秀の家老の平手ひらて政秀の斡旋で和睦します。そのあかしとして、道三の娘が信秀の長男、信長に嫁したのです。ここからが嫁=スパイ説ふうのエピソードになるのですが、毎晩のように深夜になると信長が外に出ていく。濃姫が他の女のもとに通っているのではないかと迫ると、「実はお前の父親の家老を寝返らせたので、城を焼く火煙があがるのではないかと見に出ておるのだ」と洩らします。それを聞いた濃姫は一大事と密書で父に知らせ、道三は家老2人を処断して難をのがれた……ところが、これはまったくの虚偽情報で、有能な家老を失脚させ支配を弱体化させる謀略だったというのです。太田牛一おおたぎゅういちが著した『信長公記のぶながこうき』に記述がないこともあり、歴史的には事実ではなかったとも思われますが……。

 しかし、人質や諜報といった後ろ向きのことではなく、もっと積極的な役割を果たしていたこともありました。『毛利家文書』には、毛利元就もとなりが長子毛利隆元たかもとの妻、尾崎局に家臣の井上一族を滅ぼしたことを知らせる書状が残っています。そのなかで元就は詳細に井上一族の罪状を挙げているのですが、最後を「この由興盛へ仰せ遣わさるべく候」と結んでいます。実は尾崎局は、この地域で大きな力を誇っていた大内義隆の重臣、内藤興盛おきもりの娘で、義隆の養女として毛利家に嫁いでいました。つまり、彼女は毛利氏大内氏内藤氏を結びつける「女性外交官として重要な役割を担っていた」のです(永井路子著「戦国大名家の女性の役割」『史料にみる日本女性のあゆみ』吉川弘文館刊)。

 こうした高い身分同士の政略的結婚とは違ったものを、豊臣秀吉と正室ねね(秀吉の没後に高台院こうだいいん)の関係に見ることができます。二人が祝言を挙げた永禄4年(1561)には、まだ秀吉=木下藤吉郎は足軽組頭にとりたてられたばかり。ねねの養父のほうが身分が高かった、とは言っても弓頭ゆみがしらといったところなのですから、上司(?)の娘に惚れた藤吉郎が、入り婿のかたちで転がりこんだ、という按配かもしれません。この結婚のあと、秀吉は信長のもとで墨俣川すのまたがわの戦一夜城いちやじょうを築くなど数々の勲功をあげ、とんとん拍子で出世していき、そして、ついには天下人となるわけですが、同時代をともに生きてきた糟糠の妻に対する秀吉の態度は優しさを失っていないようです。関白になり淀殿松丸殿まつのまるどのなどの側室を多くかかえてからも、北政所ねね宛ての秀吉自筆の消息からは、独特のユーモアと愛情を感じることができます(桑田忠親著『桃山時代の女性』吉川弘文館刊)。そして、秀吉亡き後、大坂城を出た高台院が秀吉の菩提を弔うため、徳川家康の援助を受けて、京都東山に開山した高台寺には、秀吉の陣羽織などが伝来しており、二人を偲ぶ人の列が絶えることがありません。

 その秀吉も、強敵だった徳川家康には実妹の旭姫を離縁させてまで嫁がせるという政略結婚を仕掛けています。時に家康は45歳、旭姫は44歳でした。家康の側室は2代将軍徳川秀忠の母、西郷局、尾張徳川氏徳川義直を産んだお亀の方、紀伊徳川氏徳川頼宣よりのぶ水戸徳川氏徳川頼房の母となったお万の方などがいました。こうなると現代的な夫婦愛を語ってもいささかむなしく感じられます。

『本郷』No.62(2006年3月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第62回「夫婦のはなし」(2)を元に改稿しました