日本の笑いの周辺を原始・古代の世からウォークしてきましたが、明治以降の笑いの諸相を愉み、お開きにしたいと思います。まず、前回に引き続き落語の話から始めましょう。
明治初めの落語界と言えば、何と言っても初代三遊亭円朝です。言文一致の小説にも影響を与えたと言われる円朝は、天保10年(1839)4月1日、江戸は湯島切通町で音曲を生業とする橘屋円太郎の子として生まれました。弘化2年(1845)7歳で初高座、2代目三遊亭円生の下で修行し、幕末の安政2年(1855)に円朝とあらため真打となりました。歌川国芳に習った浮世絵の技を生かした写し絵や、鳴物入りの道具噺で人気を集めましたが、明治5年(1872)、弟子の円楽に道具類の全てを譲り、みずからは素噺に復帰し、数々の名作を残します。例えば、明治11年に完成した立身出世譚の『塩原多助一代記』は同25年に2代河竹新七の脚本で歌舞伎となり、5代尾上菊五郎の愛馬との別れのシーンが人気を呼び、その後もたびたび上演されています。また、勧善懲悪の分かりやすさもあり、倹約励行の手本として小学校の修身教育の教科書にも採用され、広く知られることになります。戦後になっても5代古今亭志ん生や6代三遊亭円生がこの噺を好んで語り、今なお多くの落語ファンに親しまれています。
驚くべきは明治年間に刊行された円朝の口演をまとめた速記本の多さで、国立国会図書館の蔵書を検索するとその数は73点にも上ります。同時代の柳派の総帥柳亭燕枝で10数点、芝居噺の6代桂文治は1点しかありませんから、いかにその存在が大きなものであったかが分かります。なお、速記本の多くは、同館の近代デジタルライブラリーで当時の姿のままで読むことが出来ます。インターネットをたしなむ方はぜひ一度ご覧ください。
こうした洗練された落語がある一方で、気楽な庶民の娯楽としての落語も着実に根を張っていました。明治32年には寄席の観客動員数が527万人を超えたと言われ、ステテコ踊りの三遊亭円遊、ヘラヘラ踊りの三遊亭万橘、乗合馬車のラッパを吹く橘家円太郎、釜掘りの立川談志が「寄席の四天王」として大きな人気を集めました。しかし、彼らの人気は、現在の一発芸のお笑いタレントと同様に長続きはしませんでした。「笑い」の大量消費時代がすでに始まっていたのです。
映画が日本に輸入され公開されたのもこの時代、明治30年のことでした。大勢の人がいっしょに鑑賞することの出来る映画は、たちまち笑いの大量消費時代に相応しい大衆芸能として発展することになります。無声映画ということもあり、動きの激しいドタバタ喜劇が人気で、活弁(活動弁士)の巧みな声色が観客の爆笑を誘っていました。昭和の初めにはトーキーが登場し、活弁の多くは職を失います。しかし、売れっ子の弁士だった徳川夢声は早くからラジオの放送にも出演し、朗読や漫談で活躍しており、それほどの影響は受けませんでした。そして、昭和8年(1933)に夢声と組んで軽演劇の劇団、笑の王国を結成したのが、古川緑波でした。加藤照麿男爵の6男として生まれた緑波は、早稲田大学在学中から映画評論を手がける一方、昔からの話芸の声色を声帯模写という独自の芸にして評価されていました。松竹が資本を提供したこの劇団は、文芸部に菊田一夫・サトウハチローなども抱え、人気を集めます。この成功もあって、緑波はその喜劇役者としての才能を見込んだ小林一三・菊池寛に誘われて東宝に移籍し、戦前・戦後と映画や舞台で活躍を続け、人びとを笑いの渦に巻き込みました。
この時代、「昭和の喜劇王」と呼ばれる人物が笑いの表舞台に登場します。榎本健一、通称エノケンです。浅草オペラでデビュー、レビュー専門劇場のカジノ=フォリーでコミカルな踊りと歌が認められたエノケンは、昭和8年に松竹座でエノケン劇団を旗揚げします。映画では山本嘉次郎監督と組んで、タイトルに「エノケンの」を冠した「青春酔虎伝」「チャッキリ金太」などヒット作を次々に送り出し、舞台では浅草や新宿で毎月のように新作公演をこなし、地方巡業や大阪・名古屋などにも進出して国民的アイドルとなって行きます。戦後も活躍を続けますが、右足を脱疽のため切断。笑いの源であった「激しい動き」が困難となり、次第に芸能の表舞台から退いていきます。亡くなったのは昭和45年、「笑い」の中心はエノケンを人気者に押し上げた映画や舞台からテレビジョンの世界へと移っていました。
さて、そのテレビジョン放送の開始から来年で60年になります。次回はその周辺をウォークしてみたいと思います。
『本郷』No.85(2010年1月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第85回「笑いのはなし」(5)を元に改稿しました