徳川氏による長い平和の訪れた江戸時代、そこには子どもたちにとって夢のような情景があったことを、幕末から明治に来日した多くの外国人の手記の中に見ることができます。もちろんその裏側に虐待や暴力、子殺しなどがあったことも事実でしょう。しかし今回は、今では遠景へと消え去った「子どもたちの楽園」をウォークすることから始めたいと思います。
イギリスの初代駐日総領事に任命されたオールコックが、上海経由で長崎に到着したのは安政6年(1859)5月のことでした。街中で群れ騒ぐはだかの子どもを見て、彼が抱いたのが「子どもたちの楽園」というイメージでした。そして同じような感想を、明治維新後に来日した御雇外国人のワーグナーもブスケも、移動特派員のアーノルドも異口同音に書き止めています。大森貝塚の発掘で知られるモースは、『日本その日その日』(「東洋文庫」平凡社刊)の中でこう書いています。「いろいろな事柄の中で外国人の筆者達が一人残らず一致することがある。それは日本が子供達の天国だということである」。また、福井藩と東京大学の前身の大学南校で、物理学や化学を教えたアメリカ人教師グリフィスも、「日本人が非常に愛情の深い父であり母であり、また非常におとなしくて無邪気な子供を持っていることに、他の何よりも大いに尊敬したくなってくる」(『明治日本体験記』/「東洋文庫」平凡社刊)と書き記しています。明治初年に日本各地を旅したイギリス婦人のバードもこう証言します。「私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもを抱いたり、背負ったり、歩くときには手をとり、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないといつもつまらなそうである。」(『日本奥地紀行』/「東洋文庫」平凡社刊)。また、こうした日本探訪記の挿絵で、私たちは幼児を抱く父親や楽しそうに団欒する親子、愛らしい子どもたちの姿に出会うことが出来ます。それらを見るにつけ、「子どもたちの楽園」という彼らの印象が的外れでなかったように思えてきます。
この時代の日本人が子どもを大切に育てていたことは、数多くの教育書や育児書が書かれ、読まれていたことからも分かります。関心がなければ子育てが注目されることなどありえないはずです。中でも日本の教育学の祖と称される貝原益軒の『和俗童子訓』は、江戸時代を通じて読みつがれました。ここで説かれているのは、「父母に忠、長上に尊」といった儒教の道徳ですが、身分制社会に相応しい、穏やかな人間関係の醸成が基本となっているように見えます。また、益軒の弟子、香月牛山は医師の立場で、子育法や子どもの病気とその治療法などをまとめ、わが国初の育児書『小児必要養育草』を著しました。さらに時代が下がると、石田梅岩に始まる心学の門人たちが教育や育児に関する著作を発表するようになります。これらの書物の中で強調されているのは教育の重要さです。実際、貴族や領主などごく一部の支配層のものであった教育が民衆のレベルまで広がったのも、江戸時代のことでした。武士の子どもたちは私塾、家塾から藩校で学び、庶民の子どもたちは寺子屋に通って「読み書き算盤」、女子なら「いろはに裁縫」というわけです。
『近世藩制・藩校大事典』(吉川弘文館刊)によれば、全国の藩には219の藩校が設けられていたとなっています。会津藩の日新館、米沢藩の興譲館、水戸藩の弘道館、萩藩の明倫館、佐賀藩の弘道館、鹿児島藩の造士館などが有名ですが、その多くは江戸幕府の昌平坂学問所と同じように、寛政の改革以後、18世紀後半に整備されたものです。幕藩体制の動揺にともない、改革を担う有能な人材が求められ、この課題に応える機関として登場したのが学校だったのです。家に任されていた子どもの教育は学校へと委ねられ、周到に配慮されたカリキュラムや組織的な指導法が取り入れられます。身分の高い武士だけでなく、より幅広い層が教育の対象となっていき、個人の能力や才能を評価する試験制度も導入されます。「子どもたちの楽園」の向こう側に、子どもにも大人にも息苦しい近代が姿を現していました(小山静子著『子どもたちの近代』/「歴史文化ライブラリー」吉川弘文館刊)。
翻って今、子どもたちはどのような情景の中に立っているのでしょうか。私たちが子どもを愛することにおいて、江戸時代の人々に劣っているとは思いたくはありません。しかし、現実のこの国では……。
『本郷』No.65(2006年9月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第65回「子どもの情景」(2)を元に改稿しました