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毎回固有のテーマで、それぞれの時代における人間と事象の関わり合いを読み解いていきます。文中にちりばめられたキーワード(太字)は、『国史大辞典』の見出し語になっており、これらを手がかりにすれば、さらなる歴史の深みを味わうことが出来ます。

本連載は、『本郷』(吉川弘文館のPR誌 年6回発行)連載の同名コラムを改稿したものです。

第3回 新撰組(3)

2010年08月05日
 

 新撰組は小説やドラマの中で実に様々な姿で描かれています。小説では司馬遼太郎の名作『燃えよ剣』や『新選組血風録』、浅田次郎の『壬生義士伝』、映画では加藤泰の『幕末惨酷物語』、つかこうへいの演劇『幕末純情伝』が印象に残っています。2004年のNHKの大河ドラマ「新選組!」は、三谷幸喜の作品らしく動乱の時代の青春群像が生き生きと描かれていました。ただ近藤勇の婚姻の宴に桂小五郎(木戸孝允たかよし)が出席したり、近藤と土方歳三アメリカ合衆国公使ハリスの通訳ヒュースケンを救ったりしたフィクション部分は、賛否両論を呼びました。歴史の真実はさておいて、引き続き私たちも彼らの波乱の足跡を追いかけてみたいと思います。 

 初期の新撰組はわずか数十名の小組織で、京都守護職松平容保かたもりの預かりという不安定な立場の浪士集団にすぎませんでした。しかし、正規軍ではないからこそ、雄藩がせめぎあうパワーポリティクスの狭間で、同じように身分階級の枠を超えて活動する過激な尊王攘夷運動の志士たちを相手に、「脱法的テロ行為」を行いえたとも言えるわけです(井上勲著『開国と幕末の動乱』/「日本の時代史」20/吉川弘文館刊)。 

 禁門の変で長州勢は京都から駆逐され、朝廷は長州征討の命を江戸幕府の京都統治の代表者である徳川慶喜よしのぶに下します。征長総督は前名古屋藩(尾張藩)の藩主徳川慶勝よしかつが勤め、35藩15万の兵が動員されて長州へと向かいます。萩藩(長州藩)は益田右衛門介ますだうえもんすけら禁門の変に出陣した重臣3名を自刃させ、幕末諸隊の奇兵隊を解散するなど恭順の姿勢を示し、戦端は開かれることなく第1次長州征討は終焉しました。しかし、間違いなく時代は「政治都市」京都の限定的な小競こぜり合いから、内戦をも視野に入れた国家権力の争奪戦へと動いていました。新撰組も治安維持のための警察的組織から、本格的軍事組織への発展を目指すことになります。 

 元治元年(1864)9月、近藤勇は隊士募集のため江戸へ向かいます。ここで新たに新撰組に加わったのが深川佐賀町に北辰一刀流の道場を構えていた伊東甲子太郎とその仲間たちです。さらに近藤は、幕府の西洋医学所頭取の松本良順(松本順)を訪ね、西欧諸国の実情と日本の国際的に置かれている立場について詳しく話を聞きます。2人はたちまち意気投合し、この後近藤は、松本の支援を折にふれて受けることになります。 

 京都へ戻った近藤は、翌慶応元年(1865)4月に壬生みぶに置いていた新撰組の屯所とんしょ西本願寺に移します。広い本拠地に移転したのに伴い、土方を江戸に派遣して入隊者を募るとともに、京都・大坂(大阪)でも隊員募集に取り組みます。7月に作成された名簿『英名録』には、134名の氏名が記載されていて、この時期に新撰組が大幅に増強されたことが分かります。確かなものではありませんが、組織編成を伝えるいくつかの文書も残っており、それによると、近藤局長、土方副長、伊東参謀のもと、一番沖田総司、二番永倉新八ながくらしんぱち、三番斎藤はじめといったドラマや小説でお馴染なじみの面々が率いる、ほぼ10人編成の組が10組、兵站へいたん部門とも言うべき諸士調役と会計を掌る勘定方が置かれたとなっています。新撰組は軍事組織体として、違反者には切腹が命ぜられる厳しい隊規のもと、戦闘訓練と治安出動を繰り返しながら、大規模な戦闘に備えることになります。 

 近藤はこの年の11月に長州尋問使の大目付永井尚志なおゆきの家臣と称して広島に出張しますが、入国を果せずに京へ戻ります。翌年2月にも老中小笠原長行ながみちの一行に加わって、再度広島に赴きますが、この時も潜入に失敗しています。そして6月、幕府軍と長州軍は開戦を迎えるのですが、新撰組には出動の命令はなく、京都に留まりました。この時、近代戦の実践経験を積めなかったことが、後の鳥羽・伏見の戦などでマイナス材料となったとも言われています。 

 さて新撰組をめぐっては、佐久間象山勝海舟など魅力的な脇役たちが数多く登場します。私たちもここで「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一と近藤とのエピソードをご紹介しておきます。渋沢も東国(武蔵国榛沢郡血洗島村)の農民の出身で、尊王攘夷の志士から一橋家ひとつばしけの家臣となり、さらに幕臣となったという人物です。慶応2年10月、御書院番士大沢源次郎の捕縛を命じられた渋沢は、新撰組とその任に当たることになります(土屋喬雄著『渋沢栄一』/「人物叢書」/吉川弘文館刊)。「斬ってかかってきたら相手できるのか」と聞かれ、「馬鹿なことを言うな、自分は 糸に丸がんこ武士とは違う」と冗談を飛ばしながら、近藤と大徳寺宿坊に踏み込んで、大沢を捕えたという他愛ない話なのですが、明治維新の後に活躍できた渋沢と、生き延びることのできなかった近藤の運命の落差を今更のように感じます。

『本郷』No.51 (2004年3月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第51回「新撰組」(3)を元に改稿しました