国史大辞典ウォーク知識の泉へ
毎回固有のテーマで、それぞれの時代における人間と事象の関わり合いを読み解いていきます。文中にちりばめられたキーワード(太字)は、『国史大辞典』の見出し語になっており、これらを手がかりにすれば、さらなる歴史の深みを味わうことが出来ます。

本連載は、『本郷』(吉川弘文館のPR誌 年6回発行)連載の同名コラムを改稿したものです。

第30回 笑いのはなし(4)

2012年10月04日

「少し笑い過ぎるかと思うほど我々はよく笑う」と書いたのは柳田国男でした。昭和20年(1945)12月刊行の『笑の本願』の中の一節ですが、太平洋戦争のさなかに「非常時用の読物」として出版を企図した書物が敗戦後に刊行される皮肉をかみしめたような「自序」が印象的です。と同時に、敗北に打ちひしがれ笑いの乏しい時代の日本人に向けた柳田一流の励ましの書でもあったように思います。今回は激動する日本の近代の笑いの周辺をウォークしてみます。

幕末から明治時代初期にかけて来日した多くの外国人も、「よく笑う」日本人の印象を書きとめています。例えば、万延1年(1860)7月に江戸湾に入港し、通商条約締結交渉にあたったプロシアの全権使節オイレンブルク一行の報告書『オイレンブルク日本遠征記』には、「話あうときには冗談と笑いが興を添える。日本人は生まれつきそういう気質があるのである」と記述されています。また、スイスの連邦文書館に残るスイス所在日本関係史料にも、幕末に通商関係の交渉で来日したリンダウやアンベールが描いた庶民たちの明るい笑い声が数多く記録されています。

明治5年(1872)から9年まで、司法省の法律顧問兼法学教師として日本で暮らしたフランス人ブスケは、その著書『今日こんにちの日本』に日光駕籠かごかついだ人足たちが仲良く大笑いするエピソードを親しみを込めて描写しています。「彼らはあまり欲もなく、いつも満足して喜んでさえおり、気分にむらがなく、幾分荒々しい外観は呈しているものの、確かに国民のなかで最も健全な人々を代表している」(渡辺京二著『逝きし世の面影』/平凡社ライブラリー)。

小泉八雲の「日本人の微笑」(『新編日本の面影』/角川ソフィア文庫)は、こうした日本人の笑い、特によく浮かべる微笑を西欧人の立場から考察したエッセイとして知られています。ここで八雲は、日本人の微笑は長年育まれてきた作法であり、表情や仕草についての西洋的概念をあてはめても理解できないとして、この相違が分かれば、「生にも愛にも、また死に対してすらも微笑を向ける、あの穏やかで親切な、暖かい心を持った」日本の人びとと気持ちを通じ合うことが出来ると親日派文学者らしい発言をしています。100年以上前に書かれたこのエッセイは、日常生活の中での慎み深い微笑を喪いつつある私たちにはいささか耳が痛い指摘が溢れています。

さて、言文一致で書かれた近代写実小説の先駆と言われる二葉亭四迷ふたばていしめいの『浮雲』にも、多くの笑い声が登場します。明治24年に金港堂きんこうどうから刊行されたこの小説の中で、男たちは「アハヽヽヽ」「へヽヽ」、女たちは「ヲホホ」「オホヽヽヽ」と声をたてて実によく笑います。お調子者の本田登が、主人公内海文三の恋人のお勢の母親、お政と交わす会話はこんな具合です。
政「如才がなくってお世辞がよくって男振りも好いけれども、唯物食いの悪いのがあったら珠に疵だって、ヲホヽヽヽ」
登「アハヽヽヽ、貧乏人の質で上げ下げが怖ろしい」

こうした掛け合いの諧謔味は、式亭三馬の『浮世風呂』や十返舎一九じっぺんしゃいっくの『東海道中膝栗毛』といった江戸時代滑稽本にも通じていて、会話の記述自体も、江戸文学の中で積み上げられてきた文体が基礎になっていることが見て取れます。

夏目漱石も、テーマの近代性はさておき、江戸文化の「笑い」の伝統を充分に受け継いでいました。特に落語を愛好していたことは有名で、その笑いのエッセンスは『吾輩は猫である』などの作品に色濃く反映しています。例えば、越智東風なる若者が語る美学者迷亭が西洋料理店で「トチメンボー」という架空の料理を頼むエピソードなどは、落語そのものです。ボーイや料理番の半可通ぶりをからかう話なのですが、食通を自称する若旦那の知ったかぶりが可笑しい「酢豆腐」(上方落語では「ちりとてちん」)や、学者気取りのご隠居が屁理屈を唱える「やかん」を連想させます。

漱石は幼少のころから寄席通いをしていました。はじめは落語より講談が好みで、『吾輩は猫である』の猫が語り手になるという趣向も、講釈師の桃川如燕が談じた『百猫伝』からきているのではないかという説もあり、「吾輩もこのごろでは普通一般の猫ではない。まず桃川如燕以後の猫か」と語る記述も出てきます。大学生時代は三遊亭円朝の落語もよく聴いたようで、後年執筆した短編の「琴のそら音」などは、円朝の『真景累ヶ淵しんけいかさねがふち』の影響があると言われています。英国留学などもあってしばらく寄席から遠のいていたのですが、明治38年から正統派の落語家たちにより始められた落語研究会には、足しげく通っていたようです。中でも三代目柳家小さんが大のお気に入りで、『三四郎』では、「小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものじゃない」と褒めちぎっています。

『本郷』No.84(2009年11月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第84回「笑いのはなし」(4)を元に改稿しました