日本列島に大きな爪あとを残した東日本大震災。今なお多くの人々が避難所暮らしを余儀なくされています。震災からほどなく避難所に一冊の少年漫画雑誌が届き、子供たちがむさぼるように読みふける。そんな場面をニュースで見ました。あるいは若者や子供たちがコミックを回し読みしているシーンが流れたこともありました。被災地では水や食糧と同じように漫画が必需品だったのかもしれません。そして今、多くの漫画作家たちが、被災地の人々に励ましのイラストやメッセージを寄せ、募金活動を展開しています。現代の日本社会と文化の中に漫画は深く根を下ろしています。その漫画の世界をウォークしてみたいと思います。
まずは歴史上に現れた漫画的表現をいくつかご紹介しておきます。わが国の最古の戯画と言われているのは、法隆寺金堂の天井に残る落書です。人物の表情を生き生きと描き、古代人の風貌を伝えてくれる貴重な史料となっています。平安時代も10世紀に入ると、物語や説話を題材にしたさまざまな絵巻が描かれるようになります。なかでも天台宗の高僧、覚猷=鳥羽僧正が描いたとされる『鳥獣人物戯画巻』(高山寺蔵)、職人の姿をユーモラスに写す『東北院職人歌合』、源頼光の怪物退治を描いた『土蜘蛛草紙』などには、現代に通じるさまざまな漫画的表現を見出すことが出来ます。また、江戸時代の鳥羽絵や大津絵、葛飾北斎の『北斎漫画』、与謝蕪村の俳画、白隠慧鶴の禅画、さらに草双紙や黄表紙の挿絵などきりがありません。ぜひ『国史大辞典』第4巻別刷図版「戯画」をご覧いただきたいと思います。
近代に入ると、明治10年(1877)に『団団珍聞』が野村文夫により創刊され、自由民権運動の高揚を背景に、政府を痛烈に諷刺する小林清親らの漫画を掲載して部数を伸ばします。明治15年にはフランス人画家ビゴーが来日、17年間にわたり日本に滞在して多数の諷刺画を発表し、日本の漫画シーンに大きな影響を与えました。当時の世相を皮肉たっぷりに捉え、市井の人々の姿を温かい眼差しで描いた彼の銅版画や素描は、今も多くの人に愛好されています。
ストーリー性を持った漫画も描かれるようになり、明治・大正・昭和にわたり『東京朝日新聞』に漫画漫文スタイルの作品を連載して人気を集めた岡本一平、講談社の少年誌に『のらくろ』を描いた田河水泡、島田啓三の『冒険ダン吉』、横山隆一の新聞連載漫画『フクちゃん』など、新聞や雑誌の連載で私たちにも馴染みの名前や作品が登場してきます。そして、漫画文化が大きく花開いた戦後日本、『サザエさん』の長谷川町子、『鉄腕アトム』の手塚治虫……。いよいよ、現代の漫画へとご案内したいと思いますが、あまりに膨大なのでジャンルを「歴史」に絞って、さらにそのごく一部しか紹介できないことをお許しください。
戦後漫画界最大の巨匠、手塚治虫のライフワークと言えば『火の鳥』です。作品として発表された12編のうち「黎明編」「ヤマト編」「乱世編」など半数は、日本史や日本神話、伝承をもとに描かれた歴史漫画でもあります。なかでも昭和44年(1969)から45年にかけて発表された「鳳凰編」は、奈良時代の東大寺大仏建立を背景に、実在の僧侶良弁や左大臣の橘諸兄も登場し、生きることの意味や宗教的救済を考える手塚漫画屈指の傑作と言われています。
古代を舞台にした作品では、ほかにも山岸涼子の『日出処の天子』も知られています。主人公の聖徳太子=厩戸皇子は、両性具有の超能力者として描かれています。その意味では史実とは無縁に見えるのですが、古代史への憧憬を誘う不思議な魅力にみちていて、これを片手に奈良や飛鳥など太子ゆかりの地を訪れる女性たちは多いようです。山岸と同じ女流漫画家、大和和紀の『あさきゆめみし』は、『源氏物語』を漫画化した作品として有名です。最近は入門書として高等学校の図書館に備えられていることも多いと聞いています。かつては谷崎潤一郎などの著名な作家たちの現代語訳が、『谷崎源氏』などと呼ばれ人気を集めましたが、まさに時代は変わったということなのかもしれません。
近代を扱った作品には、徹底した取材に基づいて描かれた作品も少なくありません。関川夏央と谷口ジローのコンビによる、夏目漱石を主人公にした一連のシリーズ『「坊ちゃん」の時代』や、その一編で石川啄木の苦悩を描いた『かの蒼空に』、安彦良和『虹色のトロツキー』などは近代史研究者からも高い評価を得ています。
現代の漫画は娯楽、芸術さらには歴史や思想の分野にまでさまざまな影響力を持つにいたっています。今後どのように表現を深化させ、人々に感動と生きる力を与えることが出来るのか、静かに見守っていきたいと思います。
『本郷』No.56(2005年3月号)所載の「国史大辞典ウォーク」第56回「まんが・マンガ・漫画」を元に改稿しました