「三度の飯より江戸が好き」というお江戸ル(お江戸のアイドル!?)ほーりーこと堀口茉純さんが、江戸後期の地誌『江戸名所図会』を江戸の暮らしという視点から読み解くコーナー。江戸っ子のリアルな生活、ぜひ体感してみてください。
庭に植えた芭蕉の木が立派に育ったことから草庵が「芭蕉庵」とよばれるようになり、“芭蕉”というペンネームを使うようになったんだとか! 屋根の向こう側に描かれている大きな葉っぱが芭蕉の葉です。
松尾芭蕉が37~51歳まで本拠地としたのが、万年橋の北詰めにあった、通称深川芭蕉庵と呼ばれる場所でした。
元々は、門人の杉山杉風(さんぷう)の別宅の一角で、中には生簀(いけす)がありました。『江戸名所図会』の「芭蕉庵の旧址」の項目には、杉風は元々魚問屋だったため屋敷にも生簀を作ったが、後に家業を廃業したために生簀には魚がいなくなり、そのまま放置されて水面を水草が覆う古池のような様子になっていたという解説があります。
古池や 蛙飛び込む 水の音
というのは、芭蕉が深川にいた頃に作られた句ですから、どうやらこのさびれた生簀に蛙がポチャンと飛び込んだ、ということを詠んだものらしいのです。
蛙が「チャポン」と池に飛び込む音が聞こえてきそう! 芭蕉の時代の深川は、まだまだ開発途上。江戸の中心地にくらべるととても静かでしたし、いい意味で鄙びた雰囲気があったようです。
芭蕉の没後、この辺り一帯が武家屋敷地となりました。また『江戸名所図会』同項目には、
(芭蕉庵は)松平遠州候の(邸の)庭中にありて、古池の形いまなほ存ぜりといふ
──という記述があります。流行歌の歌詞ゆかりの地というのは今でも興味関心の対象ですが、『江戸名所図会』が書かれた当時も、そうだったみたいですね。
行く春や鳥啼き魚の目は泪(なみだ)──延宝8(1680)年に深川に移り、芭蕉庵を結んだ俳聖・松尾芭蕉。『おくのほそ道』への旅もここから出発しました。現在、芭蕉庵跡がある万年橋北交差点から清澄通りを東西に結ぶ約400メートルは深川芭蕉通りと名付けられています。
さて、写真は芭蕉庵史跡展望庭園にある芭蕉像。その先に見えるのは隅田川に架かる清洲橋。隅田川と小名木(おなぎ)川が合流するこの地点から見える景色は、「ケルンの眺め」と呼ばれています。これは清洲橋がドイツのケルンにあったヒンデンブルグ橋をモデルに造られたからだそう。毎日この眺めを独り占めしている芭蕉像。芭蕉が生きていたら、どんな句を詠んでいるのかな。
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江戸時代を代表する地誌で、江戸名所の集大成と評される、江戸後期の"ガイドブック"。斎藤幸雄・幸孝・幸成(月岑)の親子三代が手がけた大事業で、天保5(1834)年と天保7(1836)年の二度に分け、7巻20冊が刊行。1000を数える項目には、江戸はもちろん、現在の神奈川、千葉、埼玉の名所も含まれる。絵師長谷川雪旦の742点の挿画では、神社仏閣や景勝地などの実地調査に基づいた俯瞰図や、生活風俗に関係する事柄の詳細で写実的な描写が楽しめる。歴史や風俗資料としても活用されている。
江戸にくわしすぎるタレント=お江戸ル(お江戸のアイドル!?)ほーりーとして注目を集め、執筆、イベント、講演活動にも精力的に取り組む。初めての著書の『TOKUGAWA15』(草思社)は歴史書籍としては異例のロングセラーに。近刊は『江戸名所図会』など近世の版本史料を駆使して江戸人の生活実態に迫る『江戸はスゴイ~世界一幸せな人びとの浮世ぐらし~』(PHP新書)。NHKラジオ第1『DJ日本史』、TOKYO MX『週末ハッ ピーライフ!お江戸に恋して』にレギュラー出演中。