「三度の飯より江戸が好き」というお江戸ル(お江戸のアイドル!?)ほーりーこと堀口茉純さんが、江戸後期の地誌『江戸名所図会』を江戸の暮らしという視点から読み解くコーナー。江戸っ子のリアルな生活、ぜひ体感してみてください。
『江戸名所図会』に名所だけではなく、土地にまつわる物語の一コマが取り上げられているのは異例。それだけ有名で、外せないエピソードだったということですね。
木母寺(もくぼじ)と言えば、“梅若伝説”ゆかりのお寺。木母という名称も梅若の“梅”の字を分解(木+母)したものであると言われています。ここで『江戸名所図会』の本文をもとに“梅若伝説”をおさらいしてみましょう。
梅若丸は京都・北白川の吉田少将惟房(これふさ)卿の子で、5歳で父に死に別れ、7歳で比叡山に入りました。しかし、僧達の争いに巻き込まれてしまったため、北白川の家に戻ろうとしたところ、道に迷い大津に出てしまいます。ここで陸奥の人商人(ようは、人さらいして人身売買する人ですね。悪い奴!)信夫藤太(しのぶのとうた)に騙されて東国まで連れてこられ、道中に罹った病気がもとで、隅田川のほとりで亡くなってしまいました。憐れに思った土地の人々が梅若の弔いをしていると、物狂いに身をやつし、行方不明となった息子を探していた梅若の母・妙亀尼(みょうきに)がちょうど訪ねてきます。息子が亡くなったことを知り、悲嘆にくれる妙亀尼の前に、その夜梅若の霊が現れ言葉を交わしましたが、朝になると消えてしまいました。その後妙亀尼は、池に身投げして自殺したとも、近くに草庵を営んで梅若を弔い続けたとも言われています。……かわいそ~!!
吉田少将と妙亀尼の間にはなかなか子どもができず、神仏に祈ってやっと授かった大事な一人息子が梅若でした。しかし吉田少将は梅若が5歳の時に亡くなり、梅若も誘拐されて12歳で亡くなり……妙亀尼の悲しみを思うと切なくなります。
ちなみにこの挿絵には、“人買い藤太は陸奥南部の産なりとて、いまも南部の人はその怨霊あることを恐れて木母寺にいたらざる~”とあります。裏を返せば陸奥南部(青森県南部)にもこのお話とともに木母寺の名前が伝わっていたということ。“梅若伝説”ゆかりの木母寺は、全国的に有名な江戸名所だったんでしょうね。
たづね来て問はばこたえよ都鳥すみだ河原の露ときえぬと──木母寺には梅若丸の霊を祀る梅若塚(写真左)があります。梅若丸の哀しいお話は「隅田川物」として、能や浄瑠璃、歌舞伎で取り上げられ、広く知られるようになりました。梅若塚の隣にある梅若堂(写真右)には芸能をつかさどる女神、伎芸天が祀られており、芸事の師匠さんらがお参りされるそうです。さて木母寺の本尊は元三(がんざん)大師。4月15日の梅若丸の命日である梅若忌には、本堂では結願護摩のお焚き上げがあり、多くの人でにぎわうそうです。
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江戸時代を代表する地誌で、江戸名所の集大成と評される、江戸後期の"ガイドブック"。斎藤幸雄・幸孝・幸成(月岑)の親子三代が手がけた大事業で、天保5(1834)年と天保7(1836)年の二度に分け、7巻20冊が刊行。1000を数える項目には、江戸はもちろん、現在の神奈川、千葉、埼玉の名所も含まれる。絵師長谷川雪旦の742点の挿画では、神社仏閣や景勝地などの実地調査に基づいた俯瞰図や、生活風俗に関係する事柄の詳細で写実的な描写が楽しめる。歴史や風俗資料としても活用されている。
江戸にくわしすぎるタレント=お江戸ル(お江戸のアイドル!?)ほーりーとして注目を集め、執筆、イベント、講演活動にも精力的に取り組む。初めての著書の『TOKUGAWA15』(草思社)は歴史書籍としては異例のロングセラーに。近刊は『江戸名所図会』など近世の版本史料を駆使して江戸人の生活実態に迫る『江戸はスゴイ~世界一幸せな人びとの浮世ぐらし~』(PHP新書)。NHKラジオ第1『DJ日本史』、TOKYO MX『週末ハッ ピーライフ!お江戸に恋して』にレギュラー出演中。