戦争に関連するサンプルページ一覧
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「国史大辞典」「日本古典文学全集」「日本国語大辞典」「世界大百科事典」「日本大百科全書」など80種類以上の辞書・事典をパソコン、タブレット、スマートフォンで利用できます。
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三国同盟(世界大百科事典・日本大百科全書)
1882年から1915年まで存続したドイツ,オーストリア・ハンガリー,イタリア間の秘密軍事防御同盟。英仏露三国協商と対立し,第1次世界大戦の一方の陣営を形成した。ドイツ帝国成立後のビスマルク外交の目標は,フランスを孤立させ,その対独復讐戦争を
九ヵ国条約(世界大百科事典・日本大百科全書)
1922年2月6日,アメリカ,ベルギー,イギリス,フランス,中国,イタリア,日本,オランダ,ポルトガルの計9ヵ国の間でワシントン会議の一環として調印された条約。中国の主権・独立・領土的行政的保全の尊重,中国における商工業上の機会均等
ワシントン会議(国史大辞典・日本大百科全書)
大正十年(一九二一)十一月十二日から翌年二月六日まで、アメリカの提唱によりワシントンで開催された、海軍軍縮および極東・太平洋問題に関する国際会議。この会議で締結された一連の広範な諸条約・決議からなる「ワシントン体制」は、欧州における
ベルサイユ条約(日本大百科全書・国史大辞典)
第一次世界大戦に終結を与えた講和条約。1919年6月28日パリ郊外のベルサイユ宮殿「鏡の間」で連合国とドイツとの間に調印された。中国代表は講和会議には参加したが、山東問題の処理に反対して、この条約に調印しなかった。また、アメリカ合衆国は
三国協商(世界大百科事典・日本大百科全書・国史大辞典)
1891-94年にかけて成立した露仏同盟,1904年の英仏協商,07年の英露協商により生じたイギリス,ロシア,フランス3国間の友好関係の総称。三国協商についての特定の規約はない。フランスはドイツ帝国宰相ビスマルクの外交政策(三帝同盟)によって
サライエボ事件(日本大百科全書・世界大百科事典)
1914年6月28日、オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が狙撃(そげき)暗殺された事件。第一次世界大戦の導火線となった。大公夫妻は、1908年以来オーストリアに併合されていたボスニアの州都サライエ
南北戦争(日本大百科全書・世界大百科事典・日本国語大辞典)
1861~65年のアメリカ合衆国の内戦。当時34州を数えた合衆国が「南部」11州と「北部」23州とに分かれて、文字どおり国を二分して同胞が相争った南北間の内戦であった。したがって、この戦争は「諸州間の戦争」War between the Statesとよばれることもある
長州征伐(世界大百科事典)
幕末期,江戸幕府が長州藩攻撃のために起こした戦争で,第1次は未発,第2次は倒幕運動の拠点長州との全面的な軍事対決となった。第1次征長,第2次征長ともいい,この第2次征長戦を長州側では四境戦争と呼ぶ。第1次1864年(元治1)7月18日の禁門の変(蛤御
方広寺鐘銘事件(国史大辞典)
豊臣秀頼による方広寺大仏殿再興に際しひき起され、大坂冬の陣の原因の一つとなった事件。豊臣秀頼は、亡父秀吉追善供養のため、慶長七年(一六〇二)、方広寺大仏殿(東山大仏堂)の再建に着手したが、年末の失火で頓挫、あらためて片桐且元を奉行に七年後に事業を再開、同十五年六月
関ヶ原の戦い(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
1600年(慶長5)9月、徳川家康の率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍によって、美濃国関ヶ原(岐阜県不破郡関ヶ原町)で行われた「天下分け目」の戦い。 [岡本良一]三成挙兵 1598年(慶長3)豊臣秀吉が死ぬと、豊臣政権はたちまち内部分裂の兆しをみせ始めた。秀吉は生前から、家康の
島原の乱(島原・天草一揆)(国史大辞典・世界大百科事典)
江戸時代初期、松倉勝家領の肥前国島原と同国唐津寺沢堅高領の肥後国天草の領民が連帯し、少年益田(天草)四郎時貞を盟主に蜂起し、島原の原城にたてこもって幕府・諸藩兵と戦い、全員誅殺された大農民一揆。天草一揆ともいう。この一揆に対する
生田万の乱(国史大辞典)
天保八年(一八三七)六月一日の明け方、平田篤胤の元塾頭生田万らが桑名藩領柏崎陣屋(新潟県柏崎市)に乱入した事件。柏崎騒動ともいう。柏崎陣屋は桑名藩の越後領四郡六万石の総支配所で、大役所・預役所・刈羽会所の三役所があり、郡代以下五十数名で領政を担当していた。
大塩平八郎の乱(日本大百科全書・国史大辞典)
江戸後期、大坂で大塩平八郎らが救民のため挙兵した反乱。1828年(文政11)の九州大洪水より、断続的に天災による諸国異作が続き、36年(天保7)は未曽有の大飢饉であった。この打ち続く凶作・飢饉により米価高騰し、大坂市中には飢餓による死者が続出する。
天狗党の乱(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
幕末期水戸藩尊攘激派(天狗党)による筑波山挙兵とそれを契機に起った争乱。天狗の呼称は水戸藩藩主徳川斉昭が天保度の藩政改革を実施した際、改革を喜ばない門閥派が改革派藩士を批難したところから発したもので、改革派には軽格武士が多かったから
禁門の変(蛤御門の変)(国史大辞典・世界大百科事典)
元治元年(一八六四)七月、京都での尊攘派の勢力挽回を策した長州軍と京都を守る会津・薩摩藩を中心とする公武合体派軍との軍事衝突。元治甲子の変または蛤御門の変ともいう。文久三年(一八六三)八月十八日の政変は、それまで京摂間で猛威を
シャクシャインの戦い(世界大百科事典)
1669年(寛文9)6月,北海道日高のシブチャリ(現新ひだか町,旧静内町)を拠点に松前藩の収奪に抵抗して起きた近世最大のアイヌ民族の蜂起。近世初頭以来日高沿岸部のシブチャリ地方のアイヌ(メナシクル(東の人の意)の一部)とハエ(現日高町,旧門別町)地方
小豆坂古戦場(日本歴史地名大系)
[現]岡崎市羽根町 小豆坂 羽根地籍東方の丘陵地。松の木立に覆われた起伏の多い一帯が今川義元と織田信秀の軍が激しく戦った小豆坂古戦場である。「信長記」などによると、天文一一年(一五四二)八月、今川義元は駿遠三の兵を率いて、当時織田信秀の支配下にあった安祥城(現安城市)を攻撃し
第二次世界大戦(国史大辞典・日本国語大辞典)
第一次世界大戦につぐ二度目の世界戦争。日本・ドイツ・イタリアなど枢軸諸国の侵略によって始まり、これに対抗して結成された反ファシズム連合との間で一九四五年(昭和二十)まで戦われた戦争。地域的にはアジア・太平洋地域の戦争と、ヨーロッパ・北アフリカ
第一次世界大戦(国史大辞典・世界大百科事典)
一九一四年(大正三)七月二十八日オーストリアのセルビアに対する宣戦布告に始まり、一八年十一月十一日ドイツの降伏によって終った戦争。欧州大戦ともいう。発端は、ボスニアの首都サラエボ(現ユーゴスラビア領)で、一四年六月二十八日に突発したセルビアの一青年に
ナチス(世界大百科事典)
ドイツの政党。正称は国民社会主義ドイツ労働者党Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei(NSDAP)。国家社会主義ドイツ労働者党とも訳す。ナチスという呼称は,国民社会主義者Nationalsozialistの略称ナチNaziの複数形である。
日米交渉(国史大辞典)
日米戦争の回避または延引を目的とした、真珠湾攻撃前約一年間にわたる非公式外交工作および開戦外交交渉。その背景にはヨーロッパからアジア・太平洋地域に伸展した第二次世界大戦に対する日米双方の政・戦略的駆引きが窺われる。なお日本側ではこの日米国交調整工作・交渉をN工作または日米交渉と称し
太平洋戦争(国史大辞典・日本国語大辞典・世界大百科事典)
昭和十六年(一九四一)十二月八日から二十年八月十五日まで、日本と中国・アメリカ・イギリス・オランダなど連合国との間にたたかわれた戦争。国際的に見れば第二次世界大戦の一環であり、日本にとっては昭和六年の満洲事変以来の対中国侵略戦争の延長である
大日本帝国憲法(改訂新版・世界大百科事典)
1889年2月11日発布され,90年11月29日より施行され,形式的には1947年5月2日まで存続した憲法典で,〈明治憲法〉あるいは〈旧憲法〉とも呼ばれる。制定過程、明治維新にあたり政府は五ヵ条の誓文