ニッポン書物遺産

国史大辞典

episode.2
出版界の偉業ともいえる、『国史大辞典』全15巻(全17冊)はなぜ生まれたのか。その誕生の裏側には150年以上の歴史を持つ、老舗出版社の創業者の精神が生きていた。『国史』の生みの親のひとり、吉川弘文館の前田社長にお話をうかがう2回目。

なぜ創業者・吉川半七は
本屋に奉公したのか?


──『国史大辞典』だけでなく、『新訂増補国史大系』(注1)や通巻260冊以上の『人物叢書』シリーズ、『日本の時代史』全30巻など、吉川弘文館は"歴史"にこだわっているというイメージがあります。
まさしくその通りです。昭和4年に発行が開始された『新訂増補国史大系』は、予約出版というかたちをとっていました。途中戦争をはさみ、35年の歳月をかけた大事業になったのですが、読者に約束した以上、出版を中断させるわけにはいきません。そこで当時の吉川圭三社長は、『新訂増補国史大系』完成の妨げになる本は一切出さず、精力の大半を集中させました。そんなことから、歴史専門の出版社に自然になっていったのです。
――創業当初は、歴史専門ではなかったのですか?
それについては、初代の吉川半七の面白いエピソードがあります。吉川半七は本屋だった主家玉養堂に奉公し、幕末の安政4(1857)年に独立を許されました。この年を、吉川弘文館は創業年としています。実はここが半七の4軒目の奉公先なんですね。1軒目が米屋。ところが「時価の高低を利するは正路にあらず」、つまり相場に左右されるのはまともな商売じゃないと飛び出してしまう。2軒目は菓子屋。これも「(甘いものは)腹の毒なり」とダメ。3軒目は古道具屋。「偽物を真物なりと人をあざむく」と憤慨してやっぱりダメ。4軒目の本屋でようやく「世に利益する商売なり」と納得し、奉公に励んだといいます。吉川弘文館が、歴史を中心に、専門書を愚直に出し続けているのは、初代半七の「世に利益する」精神にのっとっている、ともいえるのです。

日本初の図書館から『国史大辞典』まで…
代々受け継がれているものとは

――初代半七は、アイデアマンだったと聞いています。
半七は池田屋事件(注2)や第一次長州征討(注3)のあった幕末の元治元(1864)年に、江戸から上方の京都・大坂に、飛脚を使って書籍の買い出しをしていたそうです。書物の東西交流ですね。交通機関のない時代に手がけたわけですから、一種の独占事業となりました。この事業で成した財をもとに、半七は明治3年、東京の中心・京橋南伝馬町に「吉川書房」という書店を開きます。さらにこの2階には、「書物来読貸観所」と称した、今でいう図書館を開きました。西洋事情がわかる翻訳書を多く揃え、1時間半銭の賃料を取ったようです。当時の知識人、大槻如電(じょでん)は「日本における図書館の濫觴(らんしょう:物事の起源)なり」といって賞賛しました。残念ながら6年後に火災で焼失し、以後、図書館事業は止めてしまうのですが。
――「本=世に利益するもの」という考え方といい、図書館の併設といい、吉川弘文館は創業当時から、本に関わる事業に使命を感じていたのですね。
二代目・吉川半七社長の代で旧版『国史大辞典』を出版、三代目・林譲社長の代で『新訂増補国史大系』の編集を開始、四代目・吉川圭三社長の代で新版『国史大辞典』を出版、五代目・林英男社長の代で『街道の日本史』(全56巻)や『日本の時代史』(全30巻)の刊行開始……と、どうやったら、世のためになる本を出すことができるか、ということを代々考えてきたように思います。新版『国史大辞典』は、その象徴なのでしょう。
――そしてその新版『国史大辞典』は、前田社長が吉川弘文館に入社した昭和40年に、編纂がスタートします。
当初の予定では、昭和44年には刊行がスタートできると、社長以下、安易に思っていました。しかしそれは夢のまた夢。第1巻の刊行は、昭和54年を待たねばなりませんでした。それまでの10余年、私たちは何ひとつ成果を出せぬまま、ひたすら辞典作りに励むほかなかったのです。



  • 注1 『新訂増補国史大系』
    六国史以下の史書、法令、物語など基本的で信頼度の高い文献を集成した叢書。明治時代に出版された旧版に黒板勝美らが校訂を加え増補し、昭和4‐39(1929‐64)年に刊行された。日本史研究の基本的な史料集として知られる。
  • 注2 池田屋事件
    幕末、元治元(1864)年6月、京都三条の旅宿池田屋で謀議中の長州、土佐、肥後各藩の討幕派浪士を新撰組が襲撃した事件。
  • 注3 長州征討
    幕末、江戸幕府が二度にわたり、長州藩を攻めた戦い。第一次は禁門の変(蛤御門の変)を理由に、元治元(1864)年長州へ出兵したが、外国の連合艦隊の下関来襲で危機に立っていた長州藩が恭順したので戦わずに撤兵した。長州征伐ともいわれる。

創業者・吉川半七。19歳で独立。吉川書房創業の安政4年はペリー再来航の3年後にあたる。明治35年12月死去。

吉川弘文館刊の新井白石の『東雅』。江戸中期の語学書で全20巻。初代吉川半七が亡くなり、二代目半七が初代を追善供養した際、記念事業として、明治36(1903)年に出版した。

江戸の考証家の大槻如電。博識で和漢洋の学に通じ、研究は歴史・地理から演劇・歌舞音曲に及んだ。弟は、日本初の近代的国語辞典『言海』を著した大槻文彦。『東雅』の跋文(ばつぶん;あとがき)は如電が担当し、初代半七について文章を寄せた。

二代目社長・吉川半七。15、16歳のころから初代半七のもとで丁稚奉公し、33歳で社長に就任。明治37年、吉川書房は合資会社となり、「吉川弘文館」と現在の社名に改めた。

出版界の偉業ともいえる、『国史大辞典』全15巻(全17冊)はなぜ生まれたのか。その誕生の裏側には150年以上の歴史を持つ、老舗出版社の創業者の精神が生きていた。『国史』の生みの親のひとり、吉川弘文館の前田社長にお話をうかがう2回目。

なぜ創業者・吉川半七は
本屋に奉公したのか?


──『国史大辞典』だけでなく、『新訂増補国史大系』(注1)や通巻260冊以上の『人物叢書』シリーズ、『日本の時代史』全30巻など、吉川弘文館は"歴史"にこだわっているというイメージがあります。
まさしくその通りです。昭和4年に発行が開始された『新訂増補国史大系』は、予約出版というかたちをとっていました。途中戦争をはさみ、35年の歳月をかけた大事業になったのですが、読者に約束した以上、出版を中断させるわけにはいきません。そこで当時の吉川圭三社長は、『新訂増補国史大系』完成の妨げになる本は一切出さず、精力の大半を集中させました。そんなことから、歴史専門の出版社に自然になっていったのです。
――創業当初は、歴史専門ではなかったのですか?
それについては、初代の吉川半七の面白いエピソードがあります。吉川半七は本屋だった主家玉養堂に奉公し、幕末の安政4(1857)年に独立を許されました。この年を、吉川弘文館は創業年としています。実はここが半七の4軒目の奉公先なんですね。1軒目が米屋。ところが「時価の高低を利するは正路にあらず」、つまり相場に左右されるのはまともな商売じゃないと飛び出してしまう。2軒目は菓子屋。これも「(甘いものは)腹の毒なり」とダメ。3軒目は古道具屋。「偽物を真物なりと人をあざむく」と憤慨してやっぱりダメ。4軒目の本屋でようやく「世に利益する商売なり」と納得し、奉公に励んだといいます。吉川弘文館が、歴史を中心に、専門書を愚直に出し続けているのは、初代半七の「世に利益する」精神にのっとっている、ともいえるのです。

日本初の図書館から『国史大辞典』まで…
代々受け継がれているものとは

――初代半七は、アイデアマンだったと聞いています。
半七は池田屋事件(注2)や第一次長州征討(注3)のあった幕末の元治元(1864)年に、江戸から上方の京都・大坂に、飛脚を使って書籍の買い出しをしていたそうです。書物の東西交流ですね。交通機関のない時代に手がけたわけですから、一種の独占事業となりました。この事業で成した財をもとに、半七は明治3年、東京の中心・京橋南伝馬町に「吉川書房」という書店を開きます。さらにこの2階には、「書物来読貸観所」と称した、今でいう図書館を開きました。西洋事情がわかる翻訳書を多く揃え、1時間半銭の賃料を取ったようです。当時の知識人、大槻如電(じょでん)は「日本における図書館の濫觴(らんしょう:物事の起源)なり」といって賞賛しました。残念ながら6年後に火災で焼失し、以後、図書館事業は止めてしまうのですが。
――「本=世に利益するもの」という考え方といい、図書館の併設といい、吉川弘文館は創業当時から、本に関わる事業に使命を感じていたのですね。
二代目・吉川半七社長の代で旧版『国史大辞典』を出版、三代目・林譲社長の代で『新訂増補国史大系』の編集を開始、四代目・吉川圭三社長の代で新版『国史大辞典』を出版、五代目・林英男社長の代で『街道の日本史』(全56巻)や『日本の時代史』(全30巻)の刊行開始……と、どうやったら、世のためになる本を出すことができるか、ということを代々考えてきたように思います。新版『国史大辞典』は、その象徴なのでしょう。
――そしてその新版『国史大辞典』は、前田社長が吉川弘文館に入社した昭和40年に、編纂がスタートします。
当初の予定では、昭和44年には刊行がスタートできると、社長以下、安易に思っていました。しかしそれは夢のまた夢。第1巻の刊行は、昭和54年を待たねばなりませんでした。それまでの10余年、私たちは何ひとつ成果を出せぬまま、ひたすら辞典作りに励むほかなかったのです。



  • 注1 『新訂増補国史大系』
    六国史以下の史書、法令、物語など基本的で信頼度の高い文献を集成した叢書。明治時代に出版された旧版に黒板勝美らが校訂を加え増補し、昭和4‐39(1929‐64)年に刊行された。日本史研究の基本的な史料集として知られる。
  • 注2 池田屋事件
    幕末、元治元(1864)年6月、京都三条の旅宿池田屋で謀議中の長州、土佐、肥後各藩の討幕派浪士を新撰組が襲撃した事件。
  • 注3 長州征討
    幕末、江戸幕府が二度にわたり、長州藩を攻めた戦い。第一次は禁門の変(蛤御門の変)を理由に、元治元(1864)年長州へ出兵したが、外国の連合艦隊の下関来襲で危機に立っていた長州藩が恭順したので戦わずに撤兵した。長州征伐ともいわれる。

前田求恭(まえだ・もとやす) 前田求恭(まえだ・もとやす)

1942年生まれ。株式会社吉川弘文館代表取締役社長。國學院大学文学部史学科卒業。1965年、同社に入社すると同時に、『国史大辞典』の事務局スタッフとして編集者人生をスタート。97年の完成まで『国史大辞典』の制作ひとすじ。その後『日本の時代史』(全30巻)などを手掛けた。2006年より現職。