ニッポン書物遺産

日本歴史
地名大系

episode.2
今でこそ歴史地名事典の決定版と賞賛される『日本歴史地名大系』(通称『歴史地名』)だが、じつは何度も休刊寸前のピンチに追い込まれていた。その中で、どうやってクオリティーの高い事典を出し続けていたのか。元編集長、森田東郎さんにお話を伺う、第2回。

1巻で100人を超える
執筆陣との格闘

──その当時、編集者と執筆者全員に配布された「立項と執筆の手引き」をみると、こうあります。〈歴史地名の解説とは、土地に根ざした歴史を明らかにすることであり、それぞれの土地と史資料とに通暁した研究者の協力が不可欠である。……在地精神は本大系の基軸である〉
そこに生活している人の視点で書く。この在地精神が大きな編集方針でした。同時期に刊行していた『角川日本地名大辞典』では、大勢の専門のリライトスタッフがいて、その人たちが重要な役割を果たしていたようです。統一性ということであれば、そういう戦略もありでしょう。ですが私たちは、その土地を知らない人間がいくら史資料を丹念に調べて書いても、その土地は立体的にいきいきと立ち上がってこないと考えたんです。
──すると、在地の研究者に執筆をお願いすることになります。
ええ。ところが全市町村に、その土地の歴史を研究している人がいるわけではない。探すのも一苦労でした。しかも研究者の世代交代にともなって専門性が強くなり、専門分野以外の歴史には疎い研究者が増えてきました。結局、かかわる執筆者の数が増え、1巻平均で100人にはなったでしょうか。当然、原稿の依頼、催促、密度を濃くするためのやりとりなど、編集者ひとりの仕事量は増えます。新たな巻がスタートするごとに、「立項と執筆の手引」のほかに、巻ごとの執筆マニュアルを作成するのですが、何十枚もの分厚いものになりました。今でも当時の編集者から「あの時は大変でした」と愚痴をこぼされます(笑)。
──編集者をまとめる苦労もあったのではないですか。
いえいえ、熱心な編集者たちでしたから。私の仕事は、執筆者と編集者の間がこじれた時に、謝りに行くことだけ。内にも外にも、頭を下げることが仕事だったのかもしれません。

刊行休止のピンチを
何度も乗り越えて

──社内でも頭を下げることが多かった?
実は、編集上の苦労以上に、もっとも頭を抱えたのが、採算の問題でした。なにしろ、お金がかかり、赤字が累積する。社内の各方面から、何度「休刊止むなし」と言われたことか(笑)。妥協してクオリティーを落としたくないと考えていましたので、いろいろ手を打ちましたが、赤字から逃れることができない。実売率は相当高かったのですが、赤字を解消することができず、毎年毎年、恒例行事のように、なにかしらの大きな問題が持ち上がっていました。
──どうやって乗り切ったのですか?
土下座はしたことがありませんが……まあ、それ以外のことは全部しましたよ(笑)。終盤は、『歴史地名』のデジタル化権を譲渡することで一息つきました。それで、今のジャパンナレッジでの展開があるわけです。
次回は12月10日(木)を予定。

北海道・白老村の試作原稿。上段は執筆者から送られてきた原案。ところどころ編集者のチェックが入っている。下段はチェックについての編集者のコメント。ふりがなをつけてほしい、典拠を記してほしいなど、細かな指示を簡潔に書いている。この見本は、どのような編集作業がなされるかを示すため、北海道の執筆者全員に送られた。

各巻、5~10人くらいのチーム体制で編集を担当。うち1人がメイン担当となる。写真で示したのはメインが作り、各メンバーに配った、事典の基礎となる要項(<島根県の地名>)と<静岡県の地名>)。項目ごとの原稿枚数や進行スケジュールといった基本的なことから、その土地の行政の変遷や頻出する地名のルビ、史資料の解説に至るまで、詳細に記されている。

編集者用の「原稿整理・校正要項」(1995年版)。使用漢字、送り仮名などの基本的な決まりごとや、史資料や引用文の記載の仕方などが書かれている。

執筆者に配られた「立項と執筆の手引き」(2001年版)。『歴史地名』の企画趣意、各巻の構成、執筆上の注意などがこと細かに記されている。

今でこそ歴史地名事典の決定版と賞賛される『日本歴史地名大系』(通称『歴史地名』)だが、じつは何度も休刊寸前のピンチに追い込まれていた。その中で、どうやってクオリティーの高い事典を出し続けていたのか。元編集長、森田東郎さんにお話を伺う、第2回。

1巻で100人を超える
執筆陣との格闘

──その当時、編集者と執筆者全員に配布された「立項と執筆の手引き」をみると、こうあります。〈歴史地名の解説とは、土地に根ざした歴史を明らかにすることであり、それぞれの土地と史資料とに通暁した研究者の協力が不可欠である。……在地精神は本大系の基軸である〉
そこに生活している人の視点で書く。この在地精神が大きな編集方針でした。同時期に刊行していた『角川日本地名大辞典』では、大勢の専門のリライトスタッフがいて、その人たちが重要な役割を果たしていたようです。統一性ということであれば、そういう戦略もありでしょう。ですが私たちは、その土地を知らない人間がいくら史資料を丹念に調べて書いても、その土地は立体的にいきいきと立ち上がってこないと考えたんです。
──すると、在地の研究者に執筆をお願いすることになります。
ええ。ところが全市町村に、その土地の歴史を研究している人がいるわけではない。探すのも一苦労でした。しかも研究者の世代交代にともなって専門性が強くなり、専門分野以外の歴史には疎い研究者が増えてきました。結局、かかわる執筆者の数が増え、1巻平均で100人にはなったでしょうか。当然、原稿の依頼、催促、密度を濃くするためのやりとりなど、編集者ひとりの仕事量は増えます。新たな巻がスタートするごとに、「立項と執筆の手引」のほかに、巻ごとの執筆マニュアルを作成するのですが、何十枚もの分厚いものになりました。今でも当時の編集者から「あの時は大変でした」と愚痴をこぼされます(笑)。
──編集者をまとめる苦労もあったのではないですか。
いえいえ、熱心な編集者たちでしたから。私の仕事は、執筆者と編集者の間がこじれた時に、謝りに行くことだけ。内にも外にも、頭を下げることが仕事だったのかもしれません。

刊行休止のピンチを
何度も乗り越えて

──社内でも頭を下げることが多かった?
実は、編集上の苦労以上に、もっとも頭を抱えたのが、採算の問題でした。なにしろ、お金がかかり、赤字が累積する。社内の各方面から、何度「休刊止むなし」と言われたことか(笑)。妥協してクオリティーを落としたくないと考えていましたので、いろいろ手を打ちましたが、赤字から逃れることができない。実売率は相当高かったのですが、赤字を解消することができず、毎年毎年、恒例行事のように、なにかしらの大きな問題が持ち上がっていました。
──どうやって乗り切ったのですか?
土下座はしたことがありませんが……まあ、それ以外のことは全部しましたよ(笑)。終盤は、『歴史地名』のデジタル化権を譲渡することで一息つきました。それで、今のジャパンナレッジでの展開があるわけです。
次回は12月10日(木)を予定。

森田東郎(もりた・はるお) 森田東郎(もりた・はるお)

1940年生まれ。1963年、三一書房に入社。毎日出版文化賞特別賞を受賞した『日本庶民生活史料集成』を担当。その後、企画・編集プロダクション文彩社設立に参加、『日本都市生活史料集成』(学習研究社、現・学研)を担当。1975年に『日本歴史地名大系』の立ち上げに参画。その後、編集長に就任し、『歴史地名』を完成まで見届けた。