ニッポン書物遺産

国史大辞典

episode.6
「さまざまな予期せぬ障害により、当初の計画を幾たびか変更することを余儀なくされ、編纂事業は困難を極め」た。昭和54(1979)年にようやく1巻目が発行された『国史大辞典』だが、完結するまで、まさに「予期せぬ障害」の繰り返し。今回は、その困難を極めた編集作業を吉川弘文館社長の前田求恭さんにうかがう。

刊行間近に起きた
予期せぬ事態


――32年間という長きにわたった編集作業。当然、さまざまな事件があったと思いますが、最大の危機は?
1巻目の発行が大詰めにきていたときのこと。原稿や図版も集まり、印刷も刷了し、後は製本を待つだけ、という状態です。ところが、1台分の刷本がない。じつは一人、筆をとろうとしない先生がいたんです。
――執筆者の交代は考えなかったのですか。
そういった意見もあったように思います。ただこの方は、立ち上げ段階から中心となってこられた先生で、書きたくないから書かない、ということではなかったんです。責任ある立場として、「原稿のすべてに目を通したい」と。そうでなければ、自分の原稿は書けない、ということなのでしょう。私はそのお気持ちが痛いほどわかりました。『国史大辞典』にいわば全身全霊をかけていらっしゃるのです。だから「書けない」。しかしそんな思いは、周囲にはわかりません。先生も説明はされない。当然、批判だけが事務局にぶつけられます。
――下手をすれば発行スケジュールも遅れる。最悪、発行されないという危機です。
私は、いざというときのために、辞表を懐に忍ばせていました。自分が責任を取るかわりに、先生の思いを尊重したい、と。そのとき社内では村八分状態でしたが、吉川圭三社長が、「任せておけ!」と一喝して自由にやらせてくれたんです。結局、すべてを閲読した段階で、空いたスペースに、先生からいただいた文字数も文字送りもぴったりの原稿を入れ込んで、急遽1台分を印刷し、なんとか事なきを得ました。しかしこのときの、どんな批判を浴びようが、いいものを作るためには妥協しない、という精神は、その後辞典が完結するまで、私たちスタッフの間を貫く、一つの軸となったのです。ほかにも、歴史観の違いによる編集委員の辞任など、さまざまな予期せぬ障害がありましたが、なんとか乗り越えられたのも、この軸があったからこそだと思っています。

一切の妥協をせず、
ついに第1巻を刊行

──「妥協しない」というスタンスが、終始一貫して、事務局に貫かれていたんですね。
「妥協しない」という軸は、実際、細部へのこだわりという形になってあらわれました。一つは、題字です。やはり重みがあって、誰もが納得する字にしたい。著名な書家に頼もう、という案も出ました。しかし頼んでしまったら「やっぱり使いません」と断ることはできない。もちろんお金もない(笑)。そこで、「国」「史」「大」「辞」「典」という5文字を、歴史的な書家の書いたものから撮影して集めてこよう、ということになったんです。所蔵者の撮影される側にとっては、作品全体でなく、文字だけ切り抜こうというのですから、よろしく思わない。いろんなところに断られたり、怒られたりもしました。最終的に、能書家として名高い、近衛家熙(このえ・いえひろ)(注1)という江戸中期の摂政関白の字を採用しました。それが本の背と扉の文字です。私の労働力だけですから、安いものです。
――デザインもできあがれば、いよいよ最終的な印刷です。
現在は、コンピュータを使って色味の調整をしていますが、当時は、職人さんがインクの壺をひねって色を調整していたものです。ですから、こちらの思い通りの色を出すためには、職人さんの腕と熱意も必要になる。私は、印刷に必ず立ち会っていましたが、この始まりの時間が決まっていないんです。予定が夜の8時からとなっていても、その前に別の物を印刷したりしていますから、予定通りに私たちの辞典の印刷が始まらない。1時間、2時間は平気で遅れるわけです。こちらは待つしかありません。待つことだけだったら、何時間でもやろうと思えばできる。すると、そうした私の姿を見ていて不憫に思ったのか、私の番が来ると、職人さんが非常に優しい。こちらの無理難題を聞こうとしてくれる。それでも思った通りの色が出ないこともあります。写真の実物を印刷所に持ち込んで、「この色が出せるといったから、仕事をお願いしたんです。出せないなら印刷所をやめてください」と随分、ひどいことを言いました(笑)。本当に、東京印書館にはご迷惑をおかけしました。その甲斐あって、昭和54年に、ようやく第1巻目――私にとっても初めての書籍が、世に出たのです。
  • 注1 近衛家熙
    江戸中期の公卿。書家。関白、摂政、太政大臣。関白基熙(もとひろ)の子。書は空海、藤原行成などの上代様をうけ、近世を代表する名手とされる。画、茶道、華道にも通じた。

『国史大辞典』編集手引など。32年間という長きにわたる編集期間、改訂に改訂を重ねた苦労のあとがうかがえる。

『国史大辞典』の背表紙に刻印された、江戸の書家・近衛家熙の字体。一つずつ抜き出した文字の寸法をはかり、右下にあるように、バランスよく並べた。

1995(平成7)年の事務局の様子。既刊の『国史』の上に、編集途中の校正紙が高く重ねてある。

「さまざまな予期せぬ障害により、当初の計画を幾たびか変更することを余儀なくされ、編纂事業は困難を極め」た。昭和54(1979)年にようやく1巻目が発行された『国史大辞典』だが、完結するまで、まさに「予期せぬ障害」の繰り返し。今回は、その困難を極めた編集作業を吉川弘文館社長の前田求恭さんにうかがう。

刊行間近に起きた
予期せぬ事態


――32年間という長きにわたった編集作業。当然、さまざまな事件があったと思いますが、最大の危機は?
1巻目の発行が大詰めにきていたときのこと。原稿や図版も集まり、印刷も刷了し、後は製本を待つだけ、という状態です。ところが、1台分の刷本がない。じつは一人、筆をとろうとしない先生がいたんです。
――執筆者の交代は考えなかったのですか。
そういった意見もあったように思います。ただこの方は、立ち上げ段階から中心となってこられた先生で、書きたくないから書かない、ということではなかったんです。責任ある立場として、「原稿のすべてに目を通したい」と。そうでなければ、自分の原稿は書けない、ということなのでしょう。私はそのお気持ちが痛いほどわかりました。『国史大辞典』にいわば全身全霊をかけていらっしゃるのです。だから「書けない」。しかしそんな思いは、周囲にはわかりません。先生も説明はされない。当然、批判だけが事務局にぶつけられます。
――下手をすれば発行スケジュールも遅れる。最悪、発行されないという危機です。
私は、いざというときのために、辞表を懐に忍ばせていました。自分が責任を取るかわりに、先生の思いを尊重したい、と。そのとき社内では村八分状態でしたが、吉川圭三社長が、「任せておけ!」と一喝して自由にやらせてくれたんです。結局、すべてを閲読した段階で、空いたスペースに、先生からいただいた文字数も文字送りもぴったりの原稿を入れ込んで、急遽1台分を印刷し、なんとか事なきを得ました。しかしこのときの、どんな批判を浴びようが、いいものを作るためには妥協しない、という精神は、その後辞典が完結するまで、私たちスタッフの間を貫く、一つの軸となったのです。ほかにも、歴史観の違いによる編集委員の辞任など、さまざまな予期せぬ障害がありましたが、なんとか乗り越えられたのも、この軸があったからこそだと思っています。

一切の妥協をせず、
ついに第1巻を刊行

──「妥協しない」というスタンスが、終始一貫して、事務局に貫かれていたんですね。
「妥協しない」という軸は、実際、細部へのこだわりという形になってあらわれました。一つは、題字です。やはり重みがあって、誰もが納得する字にしたい。著名な書家に頼もう、という案も出ました。しかし頼んでしまったら「やっぱり使いません」と断ることはできない。もちろんお金もない(笑)。そこで、「国」「史」「大」「辞」「典」という5文字を、歴史的な書家の書いたものから撮影して集めてこよう、ということになったんです。所蔵者の撮影される側にとっては、作品全体でなく、文字だけ切り抜こうというのですから、よろしく思わない。いろんなところに断られたり、怒られたりもしました。最終的に、能書家として名高い、近衛家熙(このえ・いえひろ)(注1)という江戸中期の摂政関白の字を採用しました。それが本の背と扉の文字です。私の労働力だけですから、安いものです。
――デザインもできあがれば、いよいよ最終的な印刷です。
現在は、コンピュータを使って色味の調整をしていますが、当時は、職人さんがインクの壺をひねって色を調整していたものです。ですから、こちらの思い通りの色を出すためには、職人さんの腕と熱意も必要になる。私は、印刷に必ず立ち会っていましたが、この始まりの時間が決まっていないんです。予定が夜の8時からとなっていても、その前に別の物を印刷したりしていますから、予定通りに私たちの辞典の印刷が始まらない。1時間、2時間は平気で遅れるわけです。こちらは待つしかありません。待つことだけだったら、何時間でもやろうと思えばできる。すると、そうした私の姿を見ていて不憫に思ったのか、私の番が来ると、職人さんが非常に優しい。こちらの無理難題を聞こうとしてくれる。それでも思った通りの色が出ないこともあります。写真の実物を印刷所に持ち込んで、「この色が出せるといったから、仕事をお願いしたんです。出せないなら印刷所をやめてください」と随分、ひどいことを言いました(笑)。本当に、東京印書館にはご迷惑をおかけしました。その甲斐あって、昭和54年に、ようやく第1巻目――私にとっても初めての書籍が、世に出たのです。
  • 注1 近衛家熙
    江戸中期の公卿。書家。関白、摂政、太政大臣。関白基熙(もとひろ)の子。書は空海、藤原行成などの上代様をうけ、近世を代表する名手とされる。画、茶道、華道にも通じた。

前田求恭(まえだ・もとやす) 前田求恭(まえだ・もとやす)

1942年生まれ。株式会社吉川弘文館代表取締役社長。國學院大学文学部史学科卒業。1965年、同社に入社すると同時に、『国史大辞典』の事務局スタッフとして編集者人生をスタート。97年の完成まで『国史大辞典』の制作ひとすじ。その後『日本の時代史』(全30巻)などを手掛けた。2006年より現職。