ニッポン書物遺産

世界文学
大事典

episode.3
1996年にようやく刊行が開始され、98年に全6巻が完結する『世界文学大事典』。そのプロセスには、作家名の問題、言葉の問題など、「最新最大の事典」にこだわるゆえの細かい作業があった。当時の苦労と完結時の喜びとは? 当時のスタッフにお話をうかがう第3回目。

キルケゴールではなく、
キアケゴー

吉田「その国の言葉、いわゆる原綴(げんてつ)にこだわる編集方針だったそうですが、となると“読み”も問題になってきますね」

戸澤「おっしゃる通りです。例えば『アナセン ハンス・クリスチャン』。これ、誰のことだかわかりますか? 実は、デンマークの作家、アンデルセンなんです。アンデルセンというのは、日本で広まってしまった読み方で、デンマークで『アンデルセン』といっても通用しません。綴りにもこだわるならば、当然、現地の読みにもこだわらなければいけません。デンマークの宗教思想家キルケゴール、といったら皆さんご存じでしょうが、これも誤った言い回しです」

吉田「キェルケゴール、という表記も見かけますね」

戸澤「現地での読みは『キアケゴー セーレン』」

坂上「『神曲』で有名なイタリアの詩人ダンテですが、『ダンテ』とは姓名の名です。項目名は『ダンテ』なのか、姓にあたる『アリギエーリ』なのか? 最終的に編集委員のご判断で近代表記を採用、『アリギエーリ』で立項し、『ダンテ』は見よ項目にしました」

阿部「アフリカの作家に『ン』で始まる名前の人がいますが、この『ン』始まりも論議を呼びました。ある先生は、『ン』は付けるべきではないといわれるし、別の考え方の先生は、『ン』は絶対付けるべし、といわれる。アフリカには『ン』始まりの作家が多く、付ける付けないで事典の中の位置もかわってくる。最終的にはだいたいが『ン』始まりに落ち着きましたが、名前の表記ひとつとっても、簡単には扱えない問題でした」

当時は知らない言葉の辞書が引けた

吉田「カタカナで外国のものをどう表記するか。確かにこれは、事典にとっての大問題ですね」

阿部「アラビア語には随分手こずりました。凡例の『Ⅴ 外国語のかな表記』にも記していますが、たとえばアラビア語には『太陽文字』と『月文字』があります。定冠詞al-の次に月文字がくれば〈アル・〉、太陽文字がくれば〈アッ・/アン・〉に変わる。これを発音に忠実な原綴のロマナイズにすべきか、そのまま同化させずに表記するべきかで先生がたと頭を悩ませました」

戸澤「外国の言葉を日本語に置き換えるのですから、そこにはやはり限界があります。それでもなるべく現地の音に近づけたい。妥協なくやったつもりですが、その分、作業も膨大になりました」

阿部「諸国の担当でしたので、いろいろな国の言葉に触れる機会が多くなります。ある国の原稿執筆が遅れ、先生をホテルに缶詰にしたときのことです。原稿を書きながら先生が『君、ちょっとその言葉調べて』といわれるわけです。そのときは必死ですから、その国の言葉を学んでいないのに、猛スピードで辞書が引けるんです。『私、天才じゃないかしら』って。今やれ、といわれてもできませんが(笑)」

吉田「そしてようやく96年に第1巻が出ます」

坂上「本当にホッとしました。それしか記憶がない(笑)」

戸澤「確かに最初の一巻はうれしかったなあ。見返しのマーブルデザイン、白の箔押し……こだわりのデザインをしげしげと眺めました」

阿部「編集作業をしている途中のことです。別の出版社の編集者から『大きな事典を作っていると、誰か1人は倒れて戻ってこられなくなるんだよ』と脅されたんです。編集部内では、『きっとそれは戸澤編集長に違いない!』って。刊行が終わったときに、『ああ、よかった。戸澤さんは無事だった……』って思いましたね(笑)」

吉田「全員ご無事で何よりでした(笑)。事典編集部は人の入れ替えはありましたが、そのまま休まず、簡約版、デジタル版、と新たな形式での事典作りに入っていくのですね」



項目を整理したノート。項目の読み方が変わると掲載箇所が変わるので、本文同様気の抜けない作業である。

ある索引ページを見ると『詩集』という作品名がズラリ。作者名や固有のタイトルが入らない単なる『詩集』がこれだけ掲載されているのも、まさに“地球規模”ならではだ。

1996年にようやく刊行が開始され、98年に全6巻が完結する『世界文学大事典』。そのプロセスには、作家名の問題、言葉の問題など、「最新最大の事典」にこだわるゆえの細かい作業があった。当時の苦労と完結時の喜びとは? 当時のスタッフにお話をうかがう第3回目。

キルケゴールではなく、
キアケゴー

吉田「その国の言葉、いわゆる原綴(げんてつ)にこだわる編集方針だったそうですが、となると“読み”も問題になってきますね」

戸澤「おっしゃる通りです。例えば『アナセン ハンス・クリスチャン』。これ、誰のことだかわかりますか? 実は、デンマークの作家、アンデルセンなんです。アンデルセンというのは、日本で広まってしまった読み方で、デンマークで『アンデルセン』といっても通用しません。綴りにもこだわるならば、当然、現地の読みにもこだわらなければいけません。デンマークの宗教思想家キルケゴール、といったら皆さんご存じでしょうが、これも誤った言い回しです」

吉田「キェルケゴール、という表記も見かけますね」

戸澤「現地での読みは『キアケゴー セーレン』」

坂上「『神曲』で有名なイタリアの詩人ダンテですが、『ダンテ』とは姓名の名です。項目名は『ダンテ』なのか、姓にあたる『アリギエーリ』なのか? 最終的に編集委員のご判断で近代表記を採用、『アリギエーリ』で立項し、『ダンテ』は見よ項目にしました」

阿部「アフリカの作家に『ン』で始まる名前の人がいますが、この『ン』始まりも論議を呼びました。ある先生は、『ン』は付けるべきではないといわれるし、別の考え方の先生は、『ン』は絶対付けるべし、といわれる。アフリカには『ン』始まりの作家が多く、付ける付けないで事典の中の位置もかわってくる。最終的にはだいたいが『ン』始まりに落ち着きましたが、名前の表記ひとつとっても、簡単には扱えない問題でした」


当時は知らない言葉の辞書が引けた

吉田「カタカナで外国のものをどう表記するか。確かにこれは、事典にとっての大問題ですね」

阿部「アラビア語には随分手こずりました。凡例の『Ⅴ 外国語のかな表記』にも記していますが、たとえばアラビア語には『太陽文字』と『月文字』があります。定冠詞al-の次に月文字がくれば〈アル・〉、太陽文字がくれば〈アッ・/アン・〉に変わる。これを発音に忠実な原綴のロマナイズにすべきか、そのまま同化させずに表記するべきかで先生がたと頭を悩ませました」

戸澤「外国の言葉を日本語に置き換えるのですから、そこにはやはり限界があります。それでもなるべく現地の音に近づけたい。妥協なくやったつもりですが、その分、作業も膨大になりました」

阿部「諸国の担当でしたので、いろいろな国の言葉に触れる機会が多くなります。ある国の原稿執筆が遅れ、先生をホテルに缶詰にしたときのことです。原稿を書きながら先生が『君、ちょっとその言葉調べて』といわれるわけです。そのときは必死ですから、その国の言葉を学んでいないのに、猛スピードで辞書が引けるんです。『私、天才じゃないかしら』って。今やれ、といわれてもできませんが(笑)」

吉田「そしてようやく96年に第1巻が出ます」

坂上「本当にホッとしました。それしか記憶がない(笑)」

戸澤「確かに最初の一巻はうれしかったなあ。見返しのマーブルデザイン、白の箔押し……こだわりのデザインをしげしげと眺めました」

阿部「編集作業をしている途中のことです。別の出版社の編集者から『大きな事典を作っていると、誰か1人は倒れて戻ってこられなくなるんだよ』と脅されたんです。編集部内では、『きっとそれは戸澤編集長に違いない!』って。刊行が終わったときに、『ああ、よかった。戸澤さんは無事だった……』って思いましたね(笑)」

吉田「全員ご無事で何よりでした(笑)。事典編集部は人の入れ替えはありましたが、そのまま休まず、簡約版、デジタル版、と新たな形式での事典作りに入っていくのですね」




戸澤忠彦(とざわ・ただひこ) 戸澤忠彦(とざわ・ただひこ)

1939年生まれ。京都大学文学部卒業。学習研究社、日本リーダーズダイジェスト社を経て、87年、綜合社入社。編集長として、98年1月、『世界文学大事典』全6巻を刊行。引き続き、最新情報知識事典『イミダス』編集長に就任。99年取締役、03年常務取締役、05年顧問に就任。

坂上 隆(さかがみ・たかし) 坂上 隆(さかがみ・たかし)

1948年生まれ。中山書店で医学書の編集に携わった後、91年、綜合社入社。『世界文学大事典』(全6巻)編集に従事。98年完結後、『世界文学事典』(全1巻、02年刊行)、『デジタル版 世界文学大事典』(02年末リリース)、古典の文庫化「ヘリテージシリーズ」(03~07年)を担当。07年取締役に就任。

阿部恵子(あべ・けいこ) 阿部恵子(あべ・けいこ)

早稲田大学教育学部国語国文学科卒業。1987年、綜合社入社。『世界文学大事典』(全6巻)編集部に配属される。98年1月、同事典の刊行完結に伴い、3月、主任として、最新情報知識事典『イミダス』編集部に異動、02年同『イミダス』編集部副編集長となり、現在に至る。

吉田正明(よしだ・まさあき) 吉田正明(よしだ・まさあき)

1954年生まれ。集英社学芸編集部辞典・学術書編集長。77年、同社に入社。女性誌をはじめ数誌の雑誌編集に携わった後、宣伝、校閲などの各セクションを経て、08年より現職。綜合社のスタッフと共同で、『デジタル版 世界文学大事典』の更新作業ほかに従事している。