日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。

第218回
「谷」の音と訓

 今回はおのれの恥をさらさなければならない。
 発端は、「辞書引き学習」の開発者である深谷圭助氏から、聞いたこんな話である。氏の小学校一年生のお子さんが、あるとき同級生とけんかをしたのだそうだ。その理由がまた面白い。けんか相手は「○谷」くんといって名字に「谷」という漢字を使っているのだが、その「谷」は「たに」と読むのだそうで、「ふかや」である「深谷」くんと、「谷」を「たに」と読むか「や」と読むかで口論になったのだという。
 すると2人はどうしたか。それがまたすごいのだが、一年生のふたりは辞書を引いて決着をつけようということになったらしい。さすがは「辞書引き学習」の家のお子さんである。
 ところが手元の小学生向けの国語辞典を調べてみると、「たに」は辞書に載っていても、「や」は載っていない。けんかに負けた「深谷」くんは、家に帰ってからお父さんに、どうしてなのかと食い下がったのだそうだ。
 だが、ここで筆者も正直に告白しておかなければならない。この話を聞いて、辞書に「谷」の「や」という読みが載っていないのは何かの間違いではないか、少なくとも漢字辞典には載っているはずだと思ったのである。「谷」の訓は「たに」で、音は「コク」と「ヤ」だと思っていたからである。
 だが、常用漢字表を見ると、「谷」には訓の「たに」と音の「コク」しかないではないか。ここでようやく今まで自分がとても恥ずかしい誤解をしていたことに気付いたのである。
 筆者が生まれ育った関東地方では、「深谷(ふかや)」「渋谷(しぶや)」「四谷(よつや)」と地名の中で「谷」を「や」と読むのは当たり前のことである。だから、何の疑いもなしに「や」という読みを受け入れていた。
 ところが江戸中期に越谷吾山(こしがござん)が編纂した方言辞典『物類称呼』(1775年)には、「谷 たに 〈略〉江戸近辺にて、やと唱ふ 渋谷瀬田谷等也」と書かれている。つまり「谷」を「や」と読むのは、江戸近辺の方言だったらしいのだ。
 早稲田大学教授の笹原宏之氏の『方言漢字』(角川書店)には、「谷」を「たに」系で読む地名や名字が多い県と、「や」系で読むのが多い県とを表示した面白い日本地図が載っている。それによると新潟、長野、愛知以東の県はすべて「や」系である。笹原氏の話だとこの地図は、地名や名字の資料を基に作成したのだそうだ。
 ちなみ「ふかや」くんの出身地は愛知で、笹原氏の地図とも見事に一致する。けんか相手の「○たに」くんは関西の出身だそうだ。
 「谷」の読みがなぜ西日本の「たに」と、東日本の「や」とに分かれるのか、理由ははっきりしないようだ。関東地方で湿地帯を意味する「やと」「やつ」と関係があるのかもしれないがよくわからない。
 だが、たとえそうではあっても「ふかや」くんのためばかりでなく、少なくとも東日本では広く使われている読みなので、今後は小学生向けの辞書といえども何らかの記述をする必要があるのかもしれない。
 自分の無知を恥じつつも、ことばとは何と奥が深いのだろうかと思うのである。

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