日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。

第504回
「さすが」は「流石」ではない?

 「流石」という珍しい名字がある。それを知ったのは、私がよく行く焼鳥屋の店主がこの名字だったからだ。ルーツは、今の富士河口湖町あたりらしい。店主の名は「さすが」である。ただ名字として、「ながれいし」「ながれ」「りゅうせき」などと読ませることもあるらしい。由来はよくわからないようだ。
 「流石」は通常「さすが」と読むので、「さすが」を「流石」と書くのは、古くから行われてきたことだろうと思い込んでいた。だが、どうもそうではないらしい。
 「さすが」は、たとえば「こんなことまで知っているなんてさすがだ」「日が落ちるとさすがに冷えてくる」「そんな言い方をされるとさすがに腹が立つ」といった使い方をする。ほとんどの国語辞典に、「流石」という漢字表記が示されている。
 ところが、『日本国語大辞典(日国)』には以下のような記載がある。形容動詞の「さすが」は、副詞「さ」、動詞「す」、助詞「がに」が連なって一語化し、その「に」を活用語尾としたものだというのである。そして副詞としての「さすが」は、「さすがに」の「に」を切り捨てた形だと説明されている。
 つまり、いくつかの語が複合してできた語だというのである。そのため、平安時代頃までは主に仮名書きされ、この語に当てた様々な漢字表記が生まれたのは、中世になってかららしい。
 『日国』には、平安時代から明治中期までに編まれた辞書のなかから代表的なものを選んで、そこに記載された表記を『日国』と対照させて示した欄がある。それによると「さすが」には以下の表記があったことがわかる。

 【雅】文明・天正・饅頭・書言
 【流石】文明・書言・ヘボン・言海
 【有繋】易林・書言・言海
 【遉】書言・言海
 【指鹿・有声】文明
 【左流・声】伊京
 (「文明」文明本節用集(室町中)・「天正」天正十八年本節用集(1590年刊)・「饅頭」饅頭屋本節用集(室町末)・「書言」和漢音釈書言字考合類大節用集(1717年刊)・「ヘボン」〔和英語林集成(再版)〕(1872年刊)・「言海」(1889~91年)・「易林」易林本節用集(1597年刊))

 これらの表記の中で「流石」が一般化したのは、近世になってかららしい。
 この「流石」という表記は、中国の唐代にまとめられた『蒙求(もうぎゅう)』の「孫楚漱石(そんそそせき)」にもとづくといわれている。このような故事だ。
 昔、中国の晋(しん)の孫楚(そんそ)が隠居しようとして、「石を枕(まくら)にしたり、流れに漱(くちすす)いだりして自由な生活をしよう」と言うところを、「石に漱ぎ、流れに枕しようと思う(漱石枕流(そうせきちんりゅう))」と誤って言ったために、友人が聞きとがめた。ところが孫楚は、「流れに枕するとは、自分の耳を洗うため、石に漱ぐとは、歯をみがくためだ」とこじつけたというのである。この故事から、「漱石枕流」は負け惜しみの強いことをいう。夏目漱石の「漱石」の号は、この故事から生まれたことも広く知られている。
 だが、私にはなぜ「漱石枕流」から「流石」の表記が生まれたのか、以前から不思議であった。関連がわからなかったのである。
 それが『言海』を増補改訂した『大言海』にある以下のような記述を見つけ、短いながら少しばかり納得できた(片仮名を平仮名に直した)。

 「通俗に、流石の字を当つ、是れは、小石は、急流に流れはすれど、淀み淀みして流るる義にして、躊躇(ためら)ふ義なるべし(孫楚が、漱石枕流の説は、附会、甚し)」

 「附会、甚し」、つまり「漱石枕流」の説はひどいこじつけだと否定しているのである。また、「躊躇ふ義なるべし」というのは、「さすが」のそれはそうだが、やはりという意味についていっているのだろう。
 それにしても現在では出所不明の「流石」という表記のみ残り、他の表記が廃れてしまったのはどういうわけなのだろうか。こじつけとはいえ故事に結び付けられた「流石」の表記だけが、人々の心に残ったということなのだろうか。

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