「忍法帖」シリーズや、明治の開化期を舞台にした小説など、数多くの推理小説や時代小説、伝奇小説を書いた、山田風太郎という作家はご存じであろう。その山田風太郎が最後に発表した小説が、『柳生十兵衛死す』(1992年)である。柳生十兵衛は、江戸前期の剣術家で、柳生新陰流を極め、父宗矩(むねのり)の死後柳生宗家を継いだ人物。まずはその小説から引用した、以下の文章をお読みいただきたい。

 「将軍の四男たる自分に対して、対等どころかそれ以下の人間に対するような口をきくのには腹がにえくりかえる。」

 注目していただきたいのは、文中の「腹がにえくりかえる」の部分である。私はパソコンでこのコラムを書いているのだが、「腹が煮えくりかえる」と書こうとすると、《「はらわたが煮えくりかえる」の誤用》と自動で表示が出てくる。
 確かに、「はらわたが煮えくりかえる」「はらわたが煮えかえる」が本来の言い方で、「腹が煮えくりかえる」は誤用とされることが多い。辞書でも、『明鏡国語辞典』は「『腹が煮えくり返る』は誤り」であると言い切っている。
 「はらわたが煮えくりかえる(煮えかえる)」は、例えば、大坂の曽根崎(そねざき)天神でおきた、お初と徳兵衛との情死事件を扱った近松門左衛門の浄瑠璃『曾根崎心中』(1703年初演)に、

 「九平次めが、けふ生玉にて徳兵衛を、散々に打擲(ちょうちゃく)したる由、腸が煮え返り」

とあるが、これが本来の使い方であるといえよう。このことについて、異論はない。
 だが、「腹がにえくりかえる」も無視できない状況にあることも確かなのである。
 「はらわた」は、『曾根崎心中』にもあるように「腸」と書く。内臓、特に大腸や小腸の総称である。この「はらわた」が煮えたぎるほどの激しい怒りをこらえることができないさまを、「はらわたが煮えくりかえる(煮えかえる)」という。「はらわた」は「腹」のことなのだから、「腹が煮えくりかえる」といってもよさそうなものだが、古くから「はらわたが」が使われてきた。「腹」だと思っている人は、「はらわた」という語の中に「はら」のがあるので、この慣用表現をうろ覚えにしているということもあるのかもしれない。
 そうしたこともあってか、「腹が煮えくりかえる」という言い方は、じわじわとだが増えている。冒頭の、『柳生十兵衛死す』の例だけでなく、書籍になったものでも、そう書いてある例はけっこうある。
 本来の言い方は「はらわた」なので、テストやクイズでこの部分を「腹」としたら、今は×になるだろう。だから、「腹」とは書かないように気をつけてほしいのだが、実際には、「腹」が広まる可能性は否定できないのである。

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 タイトルを見て、誤植では?と思った人がほとんどだろう。だが、ひょっとすると、自分はそう言っていた(言っている)という人がいるかもしれない。そう、「シャールペンシル」は誤植ではなく、沖縄県の石垣島限定の方言なのである。私も、最近になって知った。
 意味は、もちろん「シャープペンシル」のこと。だが、なぜ「シャープペンシル」が「シャールペンシル」になってしまったのか、よくわからない。「プ」と「ル」では、あまりにも音が違いすぎる。だが、石垣島の人たちはそう言うことが多い、というよりも多くの人が「シャールペンシル」と言うものだと思い込んでいるらしい。略して、「シャールペン」などとも言うそうだ。「シャーペン」は私もそう言うことがあるが、「シャールペン」はさすがに使わない。
 シャープペンシルという名称は、もともとこの文具をアメリカでeversharp「エバーシャープ」という商標名で売られたことによるらしい。日本では1877年(明治10年)に輸入されたというからかなり古い。さらに日本では、1914年(大正3年)に早川徳次(シャープ(株)の創業者)が、「早川式繰出(くりだ)し鉛筆」を製造したのが最初だという。「繰出し鉛筆」だなんて、なかなかうまいネーミングだと思う。
 「繰出し鉛筆」は『日本国語大辞典』に立項されている。意味は「(芯(しん)を繰り出すだけで文字が書けるところから)シャープ‐ペンシルの古い呼び名。」とある。ただ、残念なことに、この項目には用例がない。これに近いものとして、『アルス新語辞典』(1930年)という新語辞典に、「エヴァー・シャープ・ペンシル 英 ever sharp pencil 繰出式金属製鉛筆」という例があるのを今回見つけた。だが、ものは同じであろうが、「繰出し鉛筆」の用例としては使えない。
 ところで、なぜ石垣島だけ、「シャープ」が「シャール」になる独自の進化(?)を遂げたのだろうか。「ボールペン」の「ボール」と合体してしまったのだろうか。
 「シャールペンシル」の文献例は見つかっていないのだが、ネットで検索してみると、さすがに数は多くないものの、ヒット数はゼロではない。キャラクターのシナモンロールが付いた「シャールペンシル」などと書いているものもある。これを書いた人の出身地はどこだったのだろうか、などとつい考えてしまう。
 石垣島には、引いたことばを付せんに書いて辞書に貼(は)る「辞書引き学習」のために数年前から毎年行っているのだが、「シャールペンシル」のことは、今年の6月に行ったときに初めて知った。ただ、時間がなかったので、文具店で商品名として実際にそう書いている実例を探すことはできなかった。だから、来年もまた行って、確認しなければならなくなった。大好きな石垣島に、また行く理由ができてしまったのである。

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 開高健はユーモアあふれる文章を書いた作家だったが、いかにもというこんな文章がある。
 「西独ではパンティ大王のお目にかなって湖とモーターボートと下男を提供された。釣竿のせいである。釣竿を持っていると、時あってそういう不思議なことが起るらしいのである。なぜもっと早くこの道にいそしまなかったかと、これまた悔まれてならない。」(『三つの戦争と難民収容所』1970年)
 釣りファンならずとも続きを読みたくなるのだが、私にはもう一か所注目したい部分がある。どこかというと「お目にかなって」のところ。この「お目にかなって(お目にかなう)」は、「お眼鏡にかなう」が本来の言い方とされているのである。私のワープロソフトも「お目にかなう」と入力すると、《お眼鏡にかなうの誤用》と親切に教えてくれる。
 ところが、「お目にかなう」と言っている人はけっこう多いらしく、文化庁が行った2008年度の「国語に関する世論調査」でも、「お眼鏡にかなう」を使う人が45.1パーセント、「お目にかなう」を使う人が39.5パーセントとかなり拮抗している。
 しかもこの調査の結果では、10代と60代は、「お目にかなう」を使う人の方が多いという結果が出ている。私と同じ60代に「お目にかなう」と言う人が増えている理由はよくわからないのだが、確かに「お目にかなう」も本来的な言い方かどうかは別にして、意味的には通じそうだ。それに多少こじつけめいたことを言うと、「お眼鏡にかなう」は目上の人に評価されるという意味だが、その目上の人が眼鏡をかけていなかったら、「お眼鏡にかなう」とは言いにくい、ということもあるのかもしれない。
 もちろん「お眼鏡」は「眼鏡」の、「お目」は「目」の尊敬語である。「お眼鏡にかなう」はそれが「かなう(適う)」、つまりちょうどよく合うという意味から派生した語である。使われた例としては、『日本国語大辞典』に引用されている、江戸時代後期の人情本『閑情末摘花(かんじょうすえつむはな)』(1839~41)の例が今のところ一番古い。
 「お目にかなう」は本来の言い方ではないとされているが、私が調べた範囲では唯一『大辞林』が見出しにしている。
 改まった文章では「お眼鏡にかなう」とすべきであろうが、口頭で「お目にかなう」と言ってしまったとしても、問題はないような気がする。あとは、辞書として、『大辞林』に追随するかどうかということであろう。

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 まずは以下の文章をお読みいただきたい。黒野伸一の小説『万寿子さんの庭』(2007年)の一節である。

 「爆撃の音が止んだ時、あたしは、泣いてる場合じゃないよ、さあ行くよって、下級生たちに喝を入れて、立ち上がった」

 そのまますっと読めてしまいそうだが、実は一か所問題がある。どこかというと、「喝を入れる」のところ。「喝を入れる」の「かつ」は「活」と書くのが正しく、「喝」は誤用だとされているのである。
 「活」は、気絶した人の息を吹き返らせる術のことで、「活を入れる」のもともとの意味は、気絶した人の急所をついたりもんだりして、息を吹き返らせることをいう。時代劇などで、そんな場面を見たことがないだろうか。これから、活発でないもの、衰弱したものなどに刺激を与えて元気づけるという意味になったのである。
 一方「喝」の方は、禅宗で、修行者をしかり、どなりつけて導くときなどに用いる叫び声のことである。禅僧が、「カツ!」と大声を発しているのを、やはりドラマか何かで見たことがあるかもしれない。この「カツ」がそれである。
 ちなみに修行者などに対して「喝」と叫ぶことを、鎌倉・南北朝時代の臨済宗の僧夢窓疎石(むそうそせき)が足利直義(ただよし)の問いに答えた法話集『夢中問答集』には、「或は棒を行じ、喝を下し、指を挙げ、拳をささぐ、皆是れ宗師の手段なり」とあるので、「喝を下す」という言い方はあったのかもしれない。
 「活」と「喝」、同じ読みでもあるし、禅僧が「カツ!」と言っている姿が頭に浮かんでしまうと、つい「喝を入れる」と書いてしまう気持ちも分からないではない。実際、「喝を入れる」と書いているものは、冒頭で引用した『万寿子さんの庭』に限らず、書籍となったものでもかなり見受けられる。
 ただ、「喝を入れる」は『デジタル大辞泉』『明鏡国語辞典』などが指摘しているように、誤用としか言い様がないのである。
 ただし、「喝を入れる」だと思う人が増えてくると、将来これも認められる可能性は否定できない。そのとき、国語辞典としてどうするかが問題なのである。

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 JRの京都駅を中央口から出るとすぐに、塩小路通という東西にはしる道がある。この道を鴨川の方に向かってしばらく行くと、やがて気になる看板が目に飛び込んでくる。「皮ジャンバー」と書かれているのだ。「ジャンバー?ジャンパーではないのか?」と思ってよく見ると、向かい合った別の店の看板にも、「皮ジャンバー」と書かれているではないか。
 もちろん正しいのは「ジャンパー」で、「ジャンバー」は正しい発音ではない。英語の綴りもjumperで 、jumber ではない。「ジャンパー」とは、言うまでもなく作業服、スポーツ着、遊び着などに利用する上着のことだが、最近はフランス語のブルゾンblousonを使う方が多いかもしれない。確かに、「ブルゾン」の方がおしゃれ着っぽく聞こえる。
 「ジャンパー」は、もともとは漁師や工員・船乗りなどが着ていた上着を指していたようだ。『小学館ランダムハウス英和大辞典』によれば、jumpは「廃語」だそうだが、「短い上着」をいったらしい。
 にもかかわらず、日本では「ジャンバー」という人がいる。そして、京都のこの看板ではないが、「ジャンバー」と書く人もいる。
 『日本国語大辞典』を見ると、「ジャンパー」の項目に、

*浮雲〔1949~50〕〈林芙美子〉二八「ジャンバアのチャックをまさぐりながら」

という「ジャンバア」の例が引用されている。そして、この例によって、見出しに「ジャンバー」を異形として示している。もちろん「ジャンバー」と使っているのは林芙美子だけではない。武田泰淳の小説『蝮のすゑ』(1947)にも、

 「皮ジャンバーにつつまれた部厚い彼の肩や腰を眺めた」

とある。
 もともとの英語を知っているなら間違えるはずがないと思う人もいるだろうが、私も「ジャンパー」と「ジャンバー」どちらが言いやすいかと聞かれたら、「ジャンバー」に軍配を上げそうだ。
 実は小型の国語辞典にも、「ジャンバー」を認めているものがある。

『三省堂国語辞典』「なまって、ジャンバー」
『現代国語例解辞典』異形欄にジャンバー
『岩波国語辞典』「誤って『ジャンバー』とも言う」
『明鏡国語辞典』「なまって『ジャンバー』とも」
『新明解国語辞典』言及なし

 さらに、アクセント辞典を見ると、『新明解日本語アクセント辞典』には、「ジャンバー」のアクセントまで示している。『NHK日本語発音アクセント新辞典』は、NHKは「ジャンバー」を認めていないので、「ジャンバー」のアクセントはない。新聞の用語集も、例えば共同通信の『記者ハンドブック』には「ジャンパー」しか載っていない。
 もともとの発音を考えれば、「ジャンバー」は誤用ということになるのだろうが、NHKや新聞は仕方がないとしても、私は「ジャンバー」にも市民権を与えたいと思うのである。

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