表題のような言い方をすることはないだろうか。
 実は、このような意味で使われる「人たらし」は本来のものでないため、誤用だという人がいる。『日本国語大辞典(日国)』では、「人をだますこと。また、その人」と説明しているのだが、これが「人たらし」の本来の意味である。ところが、表題で使われている「人たらし」は、多くの人に好かれる、とりこにしてしまうといった意味である。ほとんど正反対の意味といえるだろう。
 『日国』もそうなのだが、この語を立項している辞書のほとんどは、「人誑し」という表記だけを示している。「誑」という漢字は、訓は「たらす」で、たぶらかす、あざむくという意味である。「人たらし」は、まさに人のことをだますということなのである。「女たらし」「男たらし」という語もあるが、これは女(男)を誘惑してもてあそぶことや、そのようなことをする人をいう。決していい意味ではないし、今でもそれは変わっていない。
 ところが、「人たらし」の方はどうだろう。近年、プラスの評価で使われることも増えてきたのである。
 この新しい意味の「人たらし」は、作家の司馬遼太郎が使ったために広まったといわれている。たとえば、豊臣秀吉の半生を描いた『新史太閤記』(1968年)でも、「人蕩(たら)し」が繰り返し使われている。

 「猿はこの点、天性の人蕩しらしい」(上総介)
 「これは容易ならぬ人蕩しかもしれぬな」(半兵衛)
 「そのあたりが、この男の人蕩しの機微であるのかもしれない」(南殿)

といったように。これらの例はいずれも秀吉のことである。
 ここで一つ注目していただきたいのは、司馬が「人蕩し」と表記している点である。「蕩」という漢字は「トウ」と読むが、揺れ動くとか豊かに広がる、ほしいままにするといった意味がある。また、「とろける」「とろかす」とも訓(よ)み、惑わされて本心を失う、またそのようにさせるという意味もある。私は、司馬が「誑」ではなく「蕩」を使ったところに、意図的なものを感じるのである。つまり、自身が使う「人蕩し」は本来の意味とは異なると表明しているような。実際、『新史太閤記』の中では、「蕩」を単独でも使っている。

 「半兵衛も、猿のその、いわば滴(したた)るような可愛気に蕩(とろ)かされた」(調略)

 この、司馬によって新しい意味が付け加えられた「人たらし」だが、どうしたわけか小型の国語辞典では、本来の意味も含めて、『三省堂国語辞典』しか立項されていない。中型の国語辞典になるとさすがに立項されているが。私は、司馬が使ったからというわけではなく、この新しい意味も誤用ではないと思うので、いずれ『日国』にも、多くの人に好かれる、とりこにしてしまうという意味を追加したいと思っている。もちろん司馬遼太郎の例を添えて。
 最後にもう一つ、司馬遼太郎はやはりすごいと思うことがある。司馬以外が使った「人たらし」の使用例を見ると、そのほとんどが豊臣秀吉についてのものだからである。秀吉にそのようなイメージを定着させたのも、間違いなく司馬だろう。

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 ことばのなかには、いっとき使われなくなったのに、再び脚光を浴びるようになるものがある。ある意味、人間や芸術作品の評価に似ているのかもしれない。
 たとえば、「あえか」という語がそれである。『源氏物語』など主に平安文学の中で使われ、容姿や気持ちなどが弱々しいさま、かよわくなよなよとしたさまをいい、ふつう若い女性に対して使われた。『日本国語大辞典(日国)』で引用されている『源氏物語』の以下の例もその意味である。

 「はなやかならぬ姿、いとらうたげにあえかなる心ちして」(夕顔)

 おとなしく目立たない姿が、ほんとうに愛らしくきゃしゃな感じで、という意味だが、夕顔という女性に関する描写である。夕顔は光源氏と共に宿ったときに物の怪(け)に襲われて死んでしまうという、はかなげな女性である。
 平安時代には「あえか」は『源氏物語』以外の作品でも盛んに使われたのだが、中世以降になるとすでに古語だと意識されたためか、使用例ががぜん少なくなる。『日国』にもその時代の用例は見当たらない。実際にはほそぼそと使われていたのかもしれないが。
 この語を近代になって再発見した人たちがいる。歌人の与謝野晶子とその仲間である。明治30年代に、本来の意味を少し変えて、自然の景物や夢、希望などのはかなげで美しいさまに対して使い始め、やがてそれが広まっていく。明治34年(1901年)に発表された晶子の第一歌集『みだれ髪』にも、

 「あえかなる白きうすものまなじりの火かげの栄(はえ)の咀(のろ)はしき君」(はたち妻)

という短歌が収録されている。この場合の「あえか」は「うすもの(薄物)」、すなわち薄く織った織物で作った単(ひとえ)を修飾している。白く美しいと。もちろんその単を羽織っているのは、与謝野鉄幹である。「咀はし」は憎らしいといった意味だろう。
 この晶子たち明星派の歌人、詩人が「あえか」を盛んに使うようになった状況を、ちょっと冷めた目で見ていた人物がいた。夏目漱石である。漱石は『吾輩は猫である』の中で次のような面白いやりとりを描いている。『吾輩は猫である』の発表は、やはり明治30年代(38~39年)である。
 苦沙弥(くしゃみ)先生の家に迷亭、水島寒月、越智東風の3人がやってきたときのこと、先生が東風に(詩の)傑作はないかと聞くと、東風は近々詩集を出すつもりだと言って、原稿を披露するのである。東風は「新体詩人」である。その稿本の1ページ目には、「世の人に似ずあえかに見え給う  富子嬢に捧ぐ」と書かれていた。それを見た迷亭は次のように言うのである。

 「『しかし東風君この捧げ方は少しまづかったね。このにと云ふ雅言(がげん)は全体何と言ふ意味だと思ってるかね』『蚊弱(かよわ)いとかと云ふ字だと思ひます』『なるほどさうも取れん事はないが本来の字義を云ふとにと云ふ事だぜ。だから僕ならかうは書かないね』『どう書いたらもっと詩的になりませう』『僕ならかうさ。世の人に似ずあえかに見え給ふ富子嬢のに捧ぐとするね。わずかに三字のゆきさつだががあるのとないのとでは大変感じに相違があるよ』」(六)

 実は「あえか」には迷亭がいうとおり、危なっかしい様子という意味もあり、『日国』でも最初の意味に掲げていて、『源氏物語』の例を引用している。おそらくこれが原義で、それから、かよわく弱々しいさま、きゃしゃではかなげなさまという意味に派生していったのだろう。迷亭は明星派が「あえか」の意味を変化させて再び使い出したことを踏まえて、富子嬢に鼻の下を伸ばしている「新体詩人」の東風君をからかっているのだと思われる。作者の漱石はそれを批判しているのではく、面白がっているようだ。そして、いち早くそれを自作に取り込んでしまうところが漱石の言語感覚の鋭さだと思うし、日本語にかかわる者として実に興味深い。

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 太宰治の作品を読んでいて、ふと『新明解国語辞典』を思い出すことがあった。太宰と『新明解』とは、つながりは何もないのだが。
 それは『チャンス』(1946年)というエッセーのような小品で、自身の恋愛観を太宰らしい諧謔(かいぎゃく)をもって語ったものである。
 その中で太宰は、『辞苑』という辞書の「恋愛」の語釈を引用している。

 「性的衝動に基づく男女間の愛情。即ち、愛する異性と一体にならうとする特殊な性的愛」

 『辞苑』とは現在の『広辞苑』の前身となる辞書で、1935年に博文館から刊行された。編纂者は『広辞苑』と同じ新村出である。『日本国語大辞典』編集部で架蔵している、1943年4月20日発行の353版(!)の『辞苑』を見ると、間違いなく太宰が引用した内容である。だが、『チャンス』が興味深いのは、それにとどまらない。もし自分が『辞苑』の編纂者だったらとして、太宰が自分なりの「恋愛」の語釈を披露している点である。このような内容である。

 「恋愛。好色の念を文化的に新しく言いつくろいしもの。すなわち、性慾衝動に基づく男女間の激情。具体的には、一個または数個の異性と一体になろうとあがく特殊なる性的煩悶。色慾の Warming-up とでも称すべきか。」

 太宰が付け加えた「好色の念を文化的に新しく言いつくろいしもの」や、「男女間の愛情」を「男女間の激情」と、「愛する異性」を「一個または数個の異性」と書き換えているあたりは、いかにも太宰らしいと思う。だが、これを読んで、待てよ、と思ったのである。これと『辞苑』の語釈とを合わせみて、『新明解』第3版(1981年)の次のような語釈を思い出したからである。

 「特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持を持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。」

 『新明解』第3版は、編集主幹山田忠雄による個性的な語釈が話題になったものである。たとえば「恋愛」の語釈も、辞書に「合体」という語が初めて使われていることで知られている。そして、この『新明解』の語釈が、『辞苑』や太宰案と、かなり似た発想の上に成り立っていると思えてならないのである。「愛する異性と一体にならうとする」が「出来るなら合体したい」と、「一体」と「合体」の違いはあるが。ひょっとすると編集主幹だった山田忠雄は、太宰案はともかくとして、『辞苑』の方は参考にしたのではないかと勘ぐりたくなる。
 山田は『新明解』第2版の序文で、「先行書数冊を机上にひろげ、適宜に取捨選択して一書を成すは、いわゆるパッチワークの最たるもの、所詮、芋辞書の域を出ない」と高らかに宣言し、第3版で従来のものとも類書のものとも違う、個性的な語釈を目指した。ちなみに第2版(1974年)の「恋愛」の語釈は、

 「一組の男女が相互に相手にひかれ、ほかの異性をさしおいて最高の存在としてとらえ、毎日会わないではいられなくなること」

というものである。第3版ではこれをまったく異なる内容に改めたのだが、独自性を追求するあまり、逆に先行辞書にかなり似通ってしまったというのは、興味深い出来事である。太宰治が、思いがけないことに気づかせてくれたというわけだ。
 ちなみに、2020年秋に刊行された『新明解』第8版の「恋愛」の語釈は、これらともかなり異なる。それはそれでいろいろ考えさせられるのだが、それは、実際に第8版をお読みいただきたい。

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 昨年秋に、『新明解国語辞典』と『明鏡国語辞典』の改訂版が刊行された。いずれも定評のある辞書なので、すでにお手もとに置いて使っているというかたも大勢いらっしゃることだろう。
 現在、私は辞書の編集は大型の『日本国語大辞典(日国)』にしかかかわっていないのだが、やはり小型の国語辞典の動向は気になる。『日国』のような大型の辞書と、『新明解』『明鏡』のような小型の辞書とでは編集の方針がまったく異なるからである。できれば小型の辞書の編集もまたやってみたいという願望もある。
 辞書の新版が刊行されたとき、私の興味はもっぱら、ことばの“揺れ”といわれているものをその辞書がどのように扱っているかということにある。
 そういった点に関する記述は、『新明解』よりも『明鏡』の方が詳しいので、先に新版の『明鏡』第3版をパラパラと見ていたら、「開いた口が塞(ふさ)がらない」という項目でこんな注記を見つけた。
 「素晴らしい活躍に驚く意で使うのは誤り。『×ホームランの連発に開いた口がふさがらない』」
 この注記は、第2版にはなく、今回新たに追加されたものである。確かに、「開いた口が塞がらない」は、あきれ返った状態や、あきれてものも言えないさまをいう語で、相手の行為や何かの情景を見て、そのひどさやどうしようも無いさまに驚きあきれるときに使われることが多い。だから、この注記を新たに加えた意図は、わからないでもない。
 だが、私だったら、ということがあるのでそれをここで書いておきたい。
 『日国』で「開いた口がふさがらぬ」を引いてみると、まず、
 「あきれ返った状態。あきれてものも言えないさま」
 という意味が示されている。これは『明鏡』などにもある意味なので問題ないだろう。ところが、(2)として、もう一つ意味が示されているのだ。
 「うっとりしている状態。我を忘れたさま」
というもので、以下のような用例が引用されている。

 *浄瑠璃・仮名手本忠臣蔵〔1748〕三「師直は明いた口ふさがれもせずうっとりと」

これだけだとわかりにくいので、前後を少し補って説明すると、高師直 (こうのもろなお)が豪華な贈り物の目録を見てうっとりしているといった場面である。この「明いた口ふさがれもせず」は素晴らしい活躍に驚くという意味ではく、心奪われてぼうっとしているということだが、といって、あきれ返るということでもない。これは『明鏡』では×になるのだろうか。
 実は、大型の国語辞典と小型の国語辞典では編集方針が異なると書いたのは、まさにこのことなのである。『日国』は用例主義なので、現在は使われていない意味であっても、用例さえあればその意味を載せることがある。時としてその用例が、現在は“誤用”とされているものであっても。だが、小型の国語辞典は今の用法を記述するものなので、過去の使用例はほとんど無視する。どちらが正しいということではなく、あくまでも方針の違いなのだ。
 ただ、私がもしまた小型の辞書の編集に携わることができて、「開いた口が塞がらない」に注記を施すことになったら、『明鏡』のように「誤り」とは断定しないだろう。「言動などのあまりのひどさに、あきれたり驚いたりするときに使うことが多い」くらいにしておくと思う。

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 まずは、2020年3月2日の「東京新聞」首都圏ニュースに掲載された記事の見出しをお読みいただきたい。

 「本田五段 苦敗でカド番に 棋王戦第3局」

 何のことだろうとお思いになったかもしれないが、今回話題にしたいのは、「カド番」に追い込まれた将棋の本田五段のことではない。ここで使われている、「苦敗」という語についてである。この語は、国語辞典の見出し語にはなっていないが、辞書によっては解説の中に登場する不思議なことばなのである。
 いささか持って回った言い方をしてしまったが、こういうことだ。たとえば、『大辞泉』の「苦杯を嘗(な)める」の「補説」を見ると、

 「『苦杯』を『苦敗』と書くのは誤り」

と書かれている。他にも、『明鏡国語辞典』は第3版(2021年)になって、同様の注記が追加された。
 確かに、「苦杯をなめる」は苦い経験をするという意味で、この意味で「苦敗をなめる」とするのは誤りである。「苦杯」はにがい酒を入れたさかずきのことで、それから転じて、にがい経験の意味になった語だからである。
 「苦敗をなめる」と書いてしまうのは、2つのケースが考えられるのではないだろうか。
 ひとつは、単純に「くはい」は同音の「苦敗」と書くのだろうと思って、そう書いてしまったということ。これは単なる書き間違いと言ってもよい。
 もうひとつは、「苦敗」という、にがい敗戦、悔しい負けという語があって、そのような負けをこうむるという意味で、「苦敗をなめる」と言ってしまったということ。もちろん、「苦敗」などという語は辞書には立項されていないのだから、やはり誤用だということもできる。だが、冒頭の新聞の見出しに「苦敗」が使われていることを思い出していただきたい。しかも、「苦敗」の使用例は冒頭の例だけではない。

 「阪神・ロサリオ、7番降格も不発 大拙攻で松坂にまた“苦敗”」(2018年8月2日「サンケースポーツ」)

などという、阪神ファンにはその通りとしか言いようのない例もある。ここでは「苦敗」にクオーテーション・マークを付けているので、辞書に無い語、まだ認知されていない語だということを暗に示しているようだ。
 このような例が複数あるということは、まず「苦敗」を新たに辞書に立項するかどうか検討する必要があるのかもしれない。そして、もし「苦敗」を新語として辞書に載せるのであれば、「苦敗をなめる」はにがい敗戦を経験するという意味になるかもしれないということまで検討すべきなのではないだろうか。この意味での「苦敗」と「なめる」を結びつけても、意味的に不自然さは感じさせないからである。
 さらに細かなことだが、「苦敗」を立項するのなら、「『苦杯』を『苦敗』と書くのは誤り」という注記は、「『苦杯』の意味で『苦敗』と書くのは誤り」とすべきなのではないかと思う。
 将来そんな辞書が出てくるだろうか。

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