政治用語ではないのだが、政治家が好んで使う語がある。今回取り上げる「是々非々」も、間違いなくその一つだろう。よいことはよいと、悪いことは悪いと、公平な立場で判断するという意味の語である。
 インターネットで公開されている「国会会議録検索システム」でこの語を検索してみると、2020年12月10日現在、全体で398件使われている。最新の使用例は、2020年10月30日の「第203回国会参議院本会議第3号」にある

 「私ども日本維新の会は、菅政権に対しても前政権と同様、是々非々主義で対してまいります」

というものである。
 「是々非々」には出典があり、中国、戦国時代(前313年ころ~前238年ころ)の思想書『荀子(じゅんし)』に出てくる。読みやすくするために書き下し文にすると、以下のような内容である。

 「是を是とし非を非とする、これを知といい、是を非とし非を是とする、これを愚という」(修身)

 この「是々非々」はけっこう古くから政治家が好むことばだったらしく、最初に示した「第203回国会参議院本会議第3号」の例にある「是々非々主義」について、『日本国語大辞典(日国)』は面白い例を引用している。

*新しき用語の泉〔1921〕〈小林花眠〉「是々非々主義(ゼゼヒヒシュギ)〈略〉これが原政友会総裁の常套句となってから、その不断の行動と性格とに照らし見て、言外の意味を蔵する一種の新流行語となった」

 「是々非々主義」は大正時代に平民宰相と呼ばれた原敬(はらたかし)の決まり文句で、一種の流行語になっていたというのである。『新しき用語の泉』は当時の新語辞典である。だが、実は原は、この新語辞典が刊行された年の11月4日に、東京駅で暗殺されてしまう。
 「是々非々主義」という語も国会でしっかりと使われ続けていて、「国会会議録検索システム」によれば、これまでに35件見つかる。
 ところで、私が「是々非々」を「国会会議録検索システム」で検索する気になったのは、政治家がしばしばこの語を口にするのに気づいたからだが、もう一つ大きな理由がある。『日国』の「是々非々」の解説の中で、太宰治の小説『ロマネスク』(1934年)のこんな例を見つけたからなのだ。後半を補って引用する。

 「彼の気質の中には政治家の泣き言の意味でない本来の意味の是々非々の態度を示さうとする傾向があった。それがために彼は三島の宿のひとたちから、ならずもの、と呼ばれて不潔がられてゐた」(喧嘩次郎兵衛)

 太宰は政治家が「是々非々」を使う心理を見抜いていたのだ。そしてそれをさりげなく小説の中で使ってみせる。この言語感覚こそ、私が太宰を愛してやまない理由の一つなのである。

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 教師となって教えることを、「教鞭をとる」という。たとえば、『日本国語大辞典(日国)』で引用されている、国木田独歩作の短編小説『日の出』(1903年)の例のように、

「校長大島氏は四五人の教員を相手に二百余人の生徒の教鞭を採って居られます」

と使う。
 「教鞭」の「鞭」はむちのことで、今では考えられないことだが、かつては教師が授業で教えるためにむちを用いることがあった。このむちは、授業のとき教師が出来の悪い生徒や言うことを聞かない生徒を打つためのものというよりも、教授内容を指示するのに用いるものだった。これを手にとって指導することから、「教鞭をとる」で、教師となって学生や生徒に教えるという意味になったのである。
 ところが物がむちであるため、これで生徒を打つ教師がいたことも確かなようだ。やはり『日国』で引用されているものだが、中勘助の『銀の匙』(1913~15年)にこんな例がある。

「中沢先生は〈略〉どうかしてかっとすれば教鞭でもってぐらぐらするほどひとの頭をぶったりした」(後・一)

 この「中沢先生」のような教師は、昔はけっこういたのかもしれない。私が中学生だったときに、むちではないが「精神注入棒」と書いた棒を授業で使う教師がいた。黒板を指し示すためのものだったのだが、あるとき私の同級生が質問に答えなかったというだけで、それでめった打ちにされるというとんでもない事件がおきた。いつの時代のどこの話かとお思いかもしれないが、戦前のことではない。
 話がいささか脱線したが、実は新聞ではこの「教鞭をとる」を使わないようにしているらしい。たとえば、共同通信社の『記者ハンドブック』で「教鞭を執る」を見ると、「教える」「教壇に立つ」などと書き換えるようにしている。なぜそのように書き換えなければならないのか。
 「鞭」という漢字は常用漢字でないため、「教べん」と書くと意味がよくわからなくなることから、「教鞭」を使わないように書き換えるのだろうかと考えたのだが、そうではなさそうなのだ。というのは、別の用字用語集である時事通信社の『最新用字用語ブック』を見ると、『記者ハンドブック』にはない[注]が添えられている。そこには、「『鞭』が体罰を連想させるため、言い換える」という説明がある。おそらく、『記者ハンドブック』も同様の判断なのだろう。
 だが、これは実に不思議な理由だ。確かにかつてはむちで生徒を打つこともあったかもしれない。だが、「教鞭をとる」は教えるという意味の普通の慣用句なのである。しかも「鞭」という漢字は「鞭撻」という熟語でもよく使われるが、この「鞭撻」だって本来の意味はむちで打って懲らしめるということである。それが、努力するように励ますことをいうようになり、「御指導御鞭撻のほどお願い申しあげます」と広く使われるようになったのである。
 ことばづかいはあまり神経質になりすぎて制限を加えると、なんだか息苦しくなりそうだ。

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 とあるサイトでことばに関するコラムを連載しているのだが(このJapanKnowledgeではない)、少しストックを作っておこうと思って、前倒しで原稿を何本か送ったときのことである。担当者から、そのうちの2本は、内容が「ユーザーの年代を考慮すると、たぶん反応が悪いので、却下とさせていただきます」という連絡をもらった。
 読者対象に合わせた原稿でなかったことは、私のいたらなさなのだが、「却下」と言われて、これは「日本語、どうでしょう?」のネタになると思った。もちろん、そう言われて腹を立てたわけではない。純粋にことばの話である。
 「却下」は、例えば『デジタル大辞泉』によれば、

(1) 願い出などを退けること。
(2)裁判所・官庁などの国家機関が、訴訟上の申し立てや申請などを取り上げないで排斥すること。民事訴訟では、訴えの内容を審理しないで不適法として門前払いすることをいい、棄却と区別される。

と説明されている。この語釈の内容は、ほとんどの国語辞典も同様だろう。最近第8版が刊行された『新明解国語辞典』も、(2)の意味だけである。だがこれだと、私の原稿を採用しないということに対して担当者が使った「却下」は説明できない。私は、願いや申請、申し立てをしたわけではなく、ましてや法律上の行為をしたわけではないのだから。
 このような場合、俗に「ボツ(没)」と言う。ひょっとすると、その担当者は「ボツ」の方がきつい表現だと考えたのかもしれない。だがそれとは裏腹に、言われる側としては、「却下」の方が問答無用で門前払いを食らったような気がしないでもない。おそらく、本来の意味を考えてしまうからであろう。
 だが、実際には、原稿を採用しない「ボツ」という意味で「却下」を使うこともあるようで、以下のような使用例がある。

 「同時にこれまで何度も描き直しては持ち込むものの却下され続けた自分の漫画の欠点に気が付きました。」(嶽本野ばら『変身』 2007年)

 この例は、ひとつだけ私の場合と違う点がある。「却下」する側ではなく、「却下」される側が使っているということである。面白いことに立場の違いによって、ことばから受ける印象が違うように感じられる。私自身もいささか自虐的な意味合いを込めて、「原稿を書いて送ったんだけどさ、却下されちゃった」などと言いそうだ。
 このような「却下」の新しい意味は、ほとんどの国語辞典の語釈では説明できないと書いたが、実は『三省堂国語辞典』第7版では、法律用語の他に、「採用せず、しりぞけること。」という意味を載せ、「提案を却下する」という例文を添えている。この説明だと、「却下」は願いごと、申し立て、申請以外にもいえることになるので、私の原稿が「却下」されたことも説明できる。今後この新しい意味を載せる、あるいは語釈を改変する辞書は増えていくかもしれない。
 ただ、定年退職後も一応編集者のつもりである私としては、多くの辞書にこの新しい意味が載るようになったとしても、原稿を不採用にする際に、相手に「却下」と言うことはないと思う。

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 もちろん「平素」は、通常は「へいそ」と読む。ごくあたりまえの状態や状況の中で生活しているとき、という意味である。「平素から健康にはじゅうぶん注意している」とか、手紙などでは「平素のごぶさたをお許しください」などと使う。
 だったら、他にいったいどんな読み方があるのだ、と思ったかたもいらっしゃるに違いない。
 日本語には、「熟字訓(じゅくじくん)」と呼ばれている読み方ある。漢字2字に一つの訓を対応させた語のことで、「大人(おとな)」「紅葉(もみじ)」「今日(きょう)」などがそれである。「熟字訓」の主なものは、「常用漢字表」の付表に掲載されていて(熟字訓以外の当て字も含む)、この付表はインターネットで見ることもできるので興味のあるかたはぜひご覧いただきたい。けっこう難読語もあると思う。
 今回取り上げた「平素」は付表にはないが、昔の作家はこの語をけっこう自由に読ませようとしていたので、紹介してみたいと思う。引用した例は、その作家独自の読み方とは限らないものも多いし、また、その作家も読みを固定せず、時として使い分けていることもある。

「平素(いつ)」:「糠袋には平素(いつ)よりも多分の洗粉を仕込み」(尾崎紅葉『二人女房』(1891~92))

「平素(ひごろ)」:「さなきだに平素(ひごろ)より随喜渇仰の思ひを運べるもの」(幸田露伴『五重塔』(1891~92))

「平素(つね)」:「平素(つね)には似ず、大袈裟に一つぽっくりと礼をばする」(幸田露伴『五重塔』(1891~92))

「平素(しょっちゅう)」:「平素(しょっちゅう)もう疑惧(うたがひ)の念を抱いて苦痛(くるしみ)の為に刺激(こづ)き廻されて居る自分の今に思ひ比べると」(島崎藤村『破戒』(1906))

「平素(ふだん)」:「平素(ふだん)から芸人には似合はない一本気な我儘な御世辞のない瀬川のこと」(永井荷風『腕くらべ』(1916~17))

「平素(いつも)」:「意外にも、その日の曾根は涙ぐんでゐるやうな人であった。何となく平素(いつも)よりは萎(しお)れてゐた」(島崎藤村『家』(1910~11))

 これらの例を見ると、要するに「平素」は「いつ」「ひごろ」「つね」「しょっちゅう」「ふだん」「いつも」という語と同義語だということがわかる。ただ、それぞれの例文を丹念に見ると意味が微妙に異なるので面白い。中には、「平素」と書いていながら、「へいそ」と読ませると印象が硬くなってしまうため、わざわざ柔らかな和語で読ませようとしたのではないかと思えるものもある。
 このように熟語を自由に読ませることができる日本語って、本当に面白いと思う。そして、それを表現できるルビ(振り仮名)も、すごい発明だったのではないだろうか。感心しているのは私だけかもしれないが。

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 最近は手紙を書くことがほとんどなくなり、用件はもっぱらメールで済ませてしまう。ただメールでも、手紙の形式に則って書いた方が据わりがいい気がするので、末尾に「時節柄ご自愛下さい」などと、いかにも手紙文らしい文章を添えることもある。どちらかといえば儀礼的に添えていたものだが、このコロナ禍にあっては、「自愛」ということばの重みが増した気がしてならない。自分も含めて、今は「自愛」するしかないのだというような。
 ところで、この「自愛」ということばだが、手紙の中で普通に使われるようになったのは、いったいいつ頃からなのだろうか。この語自体の使用例はけっこう古く、『日本国語大辞典(日国)』によれば、奈良時代の史料を集めた「寧楽遺文(ならいぶん)」(竹内理三編)所収の『家伝』(760年頃)で使われている。だが、これは手紙文ではない。
 『日国』ではその次に引用されている『明衡往来(めいごうおうらい)』(11世紀中頃)の例が、手紙文のものである。「往来」とは手紙のことで、『明衡往来』は、男子用の手紙の文例集である。そこで「自愛」は、「自愛玉躰、不可混風塵之客」という文章の中で使われている。「玉躰」は「玉体」で相手の体を敬っていう語、「風塵」は俗世間のことなので、自愛なさって、俗世間の雑事に煩わされないように、ということのようだ。
 その後も「自愛」は手紙文の中で使われ続けたようで、『日国』には引用されていないが、『浮世風呂』『浮世床』の作者として知られる式亭三馬 (しきていさんば)撰の『大全一筆啓上 (たいぜんいっぴつけいじょう)』(1810年)という手紙文例集にも使用例がある。そこに収録された病気見舞いの手紙の文例の中に、「折角御自愛可被成候」とある。「折角御自愛なさるべく候」と読み、「折角」は、つとめて、全力を傾けてという意味だ。この『大全一筆啓上』は、インターネットでデジタル画像を閲覧できるので、興味のある方はぜひご覧いただきたい。お家流の立派な文字で書かれている。この本は模刻本(複製本)も数多く存在するので、かなり売れたのかもしれない。だとすると、これによって「自愛」の文例が広まった可能性はじゅうぶんにある。
 極めつけは、『日国』で引用している、明治時代の小学校の国語の教科書『小学読本』(若林虎三郎編 1884年)の以下のような例だろう(読みを補った)。実は今回のタイトルには、その一部を使っている。
 「厳寒の時節尊体御自愛専一に被遊候(あそばされそうろう)」(五)
 若林編の『小学読本』は、明治期に検定教科書が生まれる以前の教科書である。この教科書がどの程度使われたのか不明ながら、小学生にこのような手紙の文章を教えようとした点が何よりもすごいと思う。「時節柄、ご自愛専一にてお願い申し上げます」という表現は、今でも改まった手紙で時々見かけるが、こんな手紙を小学生からもらったら、きっと腰を抜かしてしまうに違いない。
 それはさておき、今このようなときに「自愛」を呼びかけることは、つくづく大切なことだと思う。だから、時節柄どうか皆さまもご自愛くださいますように。

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