文化庁が毎年行っている「国語に関する世論調査」の2018年(平成30年)度の結果が、10月下旬に発表された。その結果は各メディアでも取り上げていたのでご記憶のかたもいらっしゃるかもしれないが、なぜかみなそろって、「憮然」「砂をかむよう」を取り上げていた。どちらも本来の意味とは違う意味で使うという人が多かったので、目に付いたのかもしれない。
 「憮然」に関しては、このコラムの第207回で一度書いているので、今回は「砂をかむよう」について書こうと思う。
 「砂をかむよう」は、例えば『日本国語大辞典』で引用している、徳富蘆花の『思出の記』(1900~01)のように、

 「馬太伝第一章から読み始めた。宛(さ)ながら砂を噛む様だ」

のように使う。砂をかんだように味気ないという意味から、物のあじわいがない、無味乾燥で味気ないという意味で使われる。
 ところが、今回の文化庁の調査では、この「無味乾燥でつまらない様子」という意味で使うと答えた人は、32.1%、本来の意味ではない「悔しくてたまらない様子」という意味で使うという人は56.9%と、逆転した結果になったのである。
 この語に、どうして悔しくてたまらない様子という意味が生まれたのか、実はよくわからない。「悔しくて唇をかむ」という言い方があるが、それとの混同なのであろうか。そして、この意味はまだ、ほとんどの辞典に載せられていないのである。さらに、私自身も、この意味での書籍の使用例はまだ見つけられていない。半数以上の人が新しい意味で使っているというのに。
 それでは、いったいどこで使われているのかということになる。そこで、国会会議録で検索してみた。すると、確かにこの意味での使用例が存在するのである。
 例えば、2015年(平成27年)7月8日の衆議院厚生労働委員会・第29号 で、以下のような発言があった。発言者は会議録ではわかるのだが、ここでは必要な情報ではないので省略する。この厚生労働委員会の直前に判明した、年金機構から個人情報が流出した事案についての発言である。

 「私は年金機構から報告を受けたのではなくて、年金局から報告を聞きました。(略)そのときのことも非常に砂をかむような思いで、私は、何ということだと思いましたが、今回も同じように、実は六月の中旬から存在自体が、誤った説明をしたという存在自体がわかっていた。」

 ここで使われている「砂をかむよう」は、明らかに、無味乾燥で味気ないという意味ではない。悔しくてたまらないという意味である。国会会議録では、他にもこの意味の使用例があるので、ひょっとすると、新しい意味は、現時点では口頭語として広まっているのかもしれない。だが、書かれた文章の中で使われるのも時間の問題だろうし、私が見つけられないだけで、実際にはもうあるのかもしれない。そして、やがては辞書にもこの意味が載ることになるに違いない。
 ちなみに私は、「砂をかむよう」の意味は、子どもの頃に聞いたフォークソングで覚えた気がする。それは、1968年に高石ともやが歌ってヒットした、「受験生ブルース」である。「砂をかむように」と「味気ない」が続けて使われているので、実に理解しやすい。ことばを覚える手本は、教科書や書籍でなくても、あちこちにあるのだと思う。

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 大正・昭和期の代表的な大衆文学作家だった吉川英治に、『折々の記』(1953年)というエッセー集がある。まずはその中の「小鳥譜二曲」と題されたエッセーの一文をお読みいただきたい。

 「目ぬきな市街の商家で、そこの御主人公が、アマチユーアといつても、ちよつと世間に少ないほど奇特な小鳥の研究家だといふのである」

 「アマチユーア」という表記も面白いのだが(原語の発音に近いのかもしれず、吉川英治以外の使用例もある)、話題にしたいのはそのことではない。文中にある「奇特」ということばの意味である。ここでは、珍しいという意味で使っている。ひょっとすると、この文章を読んで、「奇特」の使い方に違和感をもった人もいるのではないだろうか。
 「奇特」なんて語はあまり使わないという人もいるかもしれないが、普通は、「奇特な行い」のように、心がけや行いなどがすぐれていて、ほめるべきさまである、という意味で使われる。小型の国語辞典の多くは、その意味しか載せていない。
 ところが、「奇特」を、珍しいとか奇妙だとかいった意味で使っている人もいるのである。文化庁は、この語の動向がけっこう気になるらしく、「国語に関する世論調査」で、2002年度と2015年度の2回、調査を行っている。それによると、2回の調査とも「優れて他と違って感心なこと」という意味で使うという人は、49.9パーセントと変わらない。だが、「奇妙で珍しいこと」という意味は、2002年が25.2パーセント、2015年が29.7パーセントと増えてきている。この結果だけで判断するのは難しいのだが、この語を日常語として使わなくなって、意味がわからず、「奇」という漢字から、「奇妙」と結びつけて考えたという人がいるのかもしれない。
 だが、問題はこの珍しい、奇妙という意味をどう考えるかということなのである。小型の国語辞典のほとんどこの意味を載せていないと書いたが、実は『明鏡国語辞典』は、「近年、『こんな物を買うなんて奇特なやつだ』など、風変わりの意でも使われるが、誤り。」としている。だとすると、吉川英治の使用例は誤用なのだろうか。
 「奇特」は、古くは、非常に珍しく不思議なさまや、神仏などの不思議な力、霊験といった意味で使われた語である。例えば、『日本国語大辞典』で引用している平安時代後期の説話集『今昔物語集』の、

 「鼻を塞(ふさぎ)て退くに、此の香の奇特(きどく)なるを漸く寄て見れば、草木も枯れ、鳥獣も不来ず」(六・六)

という例文は、その匂いが普通でないのをどうにか近寄ってみると、といった意味で、「奇特」は普通ではないということである。
 だとすると、吉川英治の例も、この語にもともとあった、奇妙だとか、風変わりだとかいった意味で使っているだけとしか思えないのである。
 私は、それを、「誤用」「誤り」だとは言えないと思う。

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 「石にかじりついてもこの事業は成功させたい」などと使う、「石にかじりついても」という言い方がある。どんな苦労をしてもがまんして、目的を達成しようとする、といった意味である。だが、この「石にかじりついても」を、「石にしがみついても」と言っている人がけっこういるらしい。
 文化庁が行った2008(平成20)年度の「国語に関する世論調査」でも、「石にかじりついてでも」と言っている人が66.5パーセント、「石にしがみついてでも」と言っている人が23.0パーセントという結果が出ている。少数派ながら、「しがみつく」と言っている人は、無視できない割合である。
 確かにこのように言う人はけっこう古くからいて、小説にも使用例がある。例えば、大佛次郎の『鞍馬天狗』にも、

 「なんとかして、この不覚を取り返してみせる、なんとかして、同志の者の恨みを報いてみせる。それまでは、石にしがみついても生かしておいて頂くことにしたい」(「宗十郎頭巾」1935年)とある。
 また、『日本国語大辞典』には、

 *婦系図〔1907〕〈泉鏡花〉後・四六「最う一度、石に喰いついても恢復(なほ)って」

という、「石にくいついても」という異なる言い方の使用例が引用されている。
 「かじりつく」はしっかりと歯でかみつくということで、そこから、しっかりとくっつく、しがみつくという意味になった語である。つまり、「かじりつく」と「しがみつく」は類義語の関係にあるといってもよいのではないだろうか。意味的には「しがみつく」だが、表現としては「かじりつく」を使う、「机・本・ゲームにかじりつく」といった言い方もある。「石にしがみついても」という言い方も、そうした意味の類似からくる混同なのかもしれない。
 『婦系図』にある「くいついて」も、「かじる」の本来の意味に近い。いずれにしても実際の使用例から見ると、「かじりついても」だけではないことがわかる。
 国語辞典での扱いはまちまちだが、例えば、『明鏡国語辞典』は「石にしがみついても」を誤りとしている。だとすると『鞍馬天狗』の例は誤用なのだろうか。
 私には、「石にしがみついても」「石にくいついても」はこの意味の表現のバリエーションとしか思えず、誤用と言い切る根拠は希薄な気がする。まして、「かじりつく」と「しがみつく」は類語に近いので、「石にかじりつく」が本来の言い方であるということは理解しつつも、「石にしがみついても」も認めてよいような気がするのである。

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 「ばか」の語源を聞かれ、考える機会があった。『日本国語大辞典(日国)』には、「梵語のmoha =慕何(痴)、またはmahallaka =摩訶羅(無智)の転で、僧侶が隠語として用いたことによるという」と説明されているので、今まで何の疑問も抱かずに、そうなのかと思い込んでいた。「梵語(ぼんご)」とは、古代インドの文章語サンスクリット語のことである。ところが、念のためにいくつかの国語辞典を引き比べてみると、必ずしも梵語説は定説ではないらしいことがわかり、今まで確信していたものがかなり怪しくなってきたのである。
 もちろん、梵語語源説が完全な誤りだとは言えない。『日国』をはじめとして、『広辞苑』『大辞泉』『大辞林』などの中型の国語辞典は、梵語語源説を採っているのだから。ところが、小型の国語辞典では、語源説を示していないものがほとんどなのである。語源説を載せない理由はよくわからないのだが、ひょっとすると、梵語語源説に疑問があるからなのではなかろうかと思えてくる。
 確かに、よくよく考えてみると、なんで、moha =慕何、mahallaka =摩訶羅が、バカになるのかという疑問は存在する。この説は、『広辞苑』の編者として知られる新村出の説なのだが。
 「ばか」の語源説とされるものは、他にもある。「ばか」は漢字で「破家」と書き、これは家財を破るの意で、家財を破るほどの愚かなことという意からその意味になったという説である。
 また、漢字で「馬鹿」と書くが、そのように書く理由とされる故事もある。中国の史書『史記』に見えるもので、秦(しん)の始皇帝の死後に丞相(じょうしょう)となった宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)が、おのれの権勢を試すために、二世皇帝に鹿を献じて馬だと言い張り、群臣の反応を見たという話によるというものである。だがこれは、「馬鹿」という当て字からこじつけた、日本で生まれた俗説であろう。
 このような諸説を並べてみると、「ばか」は、語源のはっきりしない語と考えた方がよさそうな気がしてくる。
 ただ、語源説を調べていく中で、ひとつ心惹かれる説があったので紹介したい。『新明解国語辞典』に載っている、「『はかなし』の語根の強調形」からだという説である。
 「はかなし(はかない)」の意味は、つかの間である、頼りにならないということで、「はかない命」「はかない望み」などと使う語である。「はか」は「計(はか)」のことで、農作業など仕事の目標量、またその実績という意味である。この「はか」は、「はかる(計・量)」「はかどる(捗)」「はかがゆく」などの「はか」と同じ仲間のことばだと考えられている。
 この「はかない」には、思慮分別がじゅうぶんでないという意味もあり、古くは浅はかである、愚かだという意味でも使われていた。例えば、『源氏物語』の「若紫」に、

 「いとはかなう物し給ふこそ、あはれにうしろめたけれ。かばかりになれば、いとかからぬ人もあるものを」

という例がある。幼いときに光源氏に見いだされ、引き取られて後に光源氏の妻となる紫の上のことをいった文章である。その幼げな姿を、ほんとうにたわいなくいらっしゃるのはふびんで気がかりなことです。これくらいのお年になれば、ほんとうにこのようではない人もおりますのに、という意味である。
 この、たわいない、思慮分別がじゅうぶんでないという意味の「はかなし(はかない)」が、強調形となって「はか(ばか)」と言われるようになり、今の愚かだ、無能だという意味で使われるようになった可能性は大いにあるのではなかろうか。
 「ばか」の語源説としてあまり知られてはいない説だが、個人的にはかなり説得力があるような気がしている。そして、それと同時に、ことばに関しては、すべて単純な思い込みは危険だと思ったのであった。

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 計画などがつぶれたり、だめになったりすることを、俗に「ポシャる」と言う。「新事業は資金が調達できずポシャった」などと使う。『日本国語大辞典(日国)』によれば、徳川夢声のエッセー『夢声半代記』(1929年)の、「新宿座は一週間でポシャったのでした」(新宿座)という例が現時点では一番古いようだ。
 『日国』をはじめ、ほとんどの国語辞典は、この語の見出しを「ポシャる」と「ポシャ」だけカタカナで表記している。多くの人も実際に文章の中で使うときは、「ポシャる」と書くだろう。だが、なぜカタカナで書くのかと考えたことはあるだろうか。
 このように書くのは理由があって、「『ポシャ』は『シャッポ』の『シャ』と『ポ』を逆にしたものの変化した語か」(『日国』)と考えられているからである。
 だが、ちょっと待ってほしい。なぜ、「シャッポ」がひっくり返ると、だめになったり、失敗したりするという意味になるのだろうか。実は、『日国』でも「変化した語か」と「か」とあるように、理由がよくわからないのである。それは他の辞書も同様である。
 ただ、「シャッポ」は「シャッポを脱ぐ」の形で、相手にかなわないと知って降参する、観念するという意味で使われるところから、降参とだめになるとを結びつけて考える向きもあるようだ。だが、そうだとしても今ひとつ説得力に欠ける気がする。「ポシャる」は不思議なことばというよりも、謎のことばなのである。
 さらに辞書では、ごく当たり前のように「シャッポ」という語をその意味を説明することなしに示しているのだが、「シャッポ」って何だろうと思う人はいないのだろうか。「シャッポ」はフランスのchapeau からで、帽子のことなのだが、私の世代にはすぐにわかっても、若い世代には知らないという人がけっこういるかもしれない。だとすると、「シャッポを脱ぐ」と言われても、きょとんとしてしまう人がいる可能性だってありそうだ。
 自戒を込めて言うと、昔の辞書はそれでよかったのだろうが、今の時代の辞書は、ニーズに合わせて、もっと親切に記述する必要がありそうな気がする。

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