まずは『日本国語大辞典(日国)』の「助長」という項目で引用した、以下の用例をお読みください。

*生活保護法〔1950〕一条「国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い〈略〉その自立を助長することを目的とする」

 ここで使われている「助長」の意味を、皆さんはどのように考えるだろうか。実は私は、「助長」は好ましくない傾向をさらに強めるというマイナスの意味だと長い間思い込んでいた。従って、この「自立を助長する」のような、ある物事の成長や発展を助けるというプラスの意味で使うのは、誤用ではないかと思っていたことがある。
 そう思っていたのは実はわけがあって、「助長」は中国の故事による語で、本来は決してプラスの意味ではなかったからである。その故事は、中国、戦国時代の儒者、孟軻(もうか)の思想を伝える『孟子』の「公孫丑(こうそんちゅう)・上」に出てくる。苗の生長を早めようとした宋の人が、苗を引き抜いて駄目にしてしまったというものである。それから、「助長」は不要な力を添えて、かえって害になるという意味で使われるようになったのである。
 そのような理由から、『日国』の「助長」で引用している唯一の古典例『山鹿語類』(1665年)も、「不義の機以て助長せしむるなり」と「不義」というマイナスの事柄に対して使っている。『山鹿語類』は、儒者で兵学者だった山鹿素行(やまがそこう)の談話を門人が編さんしたものである。
 ところが、『日国』の「助長」で引用されている明治以降の4例のうち、冒頭の「生活保護法」を含めた3例は、プラスの意味で使っている。助長する対象は、内田魯庵(うちだろあん)の評論『戦後の文学』(1895年)では「文明の進歩」だし、長塚節(ながつかたかし)の小説『土』(1910年)では「天性」である。私の勝手な印象なのかもしれないが、法律では「助長」をプラスの意味で使っているケースの方が多い気がする。例えば、『学校教育法』(1947年)には、「幼稚園は、〈略〉その心身の発達を助長する」(77条)などとあるからだ。法律では従来なかった意味を積極的に認めたということなのだろうか。いずれにしても、これらは本来の「助長」の意味からすると、誤用とはいえないまでも新しい意味ということになる。「助」と「長」なので、プラスの意味だと感じるのは無理からぬことなのだ。
 『日国』で引用している近代のマイナスの意味の例は、法学者末川博(すえかわひろし)のエッセー『彼の歩んだ道』(1965年)で、「健康についての不安」である。もちろん、マイナスの意味の使用例がこれしかなかったということではない。
 各辞書を引き比べてみると、この語の扱いの違いは顕著である。『日国』のように、「好ましくない傾向をいっそう強めること。転じて、物事の成長発展に外から力をそえること。」といったように、本来はマイナスの意味だったことを強調しているものもあるし、『日国』の語釈の後半部分だけを載せ、特にマイナスの意味については触れていないものもある。
 私は『日国』の語釈こそ正しいと思っているわけではないが、用例から判断して、今はプラスの意味でも使われることを書くべきだと思っている。ただ、この語の本来の意味となった故事も含めて、意味が変遷した語であることもどこかで触れてもいいのではないかと考えている。

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 第430回で「収束」と「終息」について書いたのだが、「収束」について、『日本国語大辞典(日国)』がらみで補足したいことがある。といっても、辞書編集者の勝手な想像、いやむしろ妄想に近い話かもしれない。それでもよろしければ、お付き合いいただきたい。
 『日国』に引用されている「収束」の、「おさまりのつくこと。決着がつくこと。」という意味の用例は、夏目漱石の『道草』(1915年)だということはそのときに書いた。その例に関して問題はないのだが、疑問が二つある。一つは、なぜ『日国』では、この意味の例は『道草』だけなのかということ。もう一つは、『道草』以前の例が実際になかったとして、漱石はなぜ「収束」を「おさまりのつくこと」の意味で使ったのかということである。
 最初の疑問は、疑問といえるほどのものではないかもしれない。わざわざ『日国』に載せるような「収束」の適切な例が、『道草』以前も以後もなかっただけなのだろうから。
 二つめの疑問はどうだろう。この意味での「収束」の例は、『道草』例が現時点ではもっとも古いことになる。今後、これよりも古い用例が見つかる可能性もあるが、『道草』以前の例がないのは、「収束」がこの意味で使われるようになったのは、漱石がかかわっていたからだと考えることはできないだろうか。
 そこで、漱石が『道草』以外の作品で「収束」を使っていないか、改めて探索してみることにした。だが、残念ながら代表的な小説やエッセーからは見つからない。そのときふと思いついたのが、『文学論』である。『文学論』は、漱石が1903~05年に東京帝大英文科で行った講義内容に加筆訂正したものである。内容はかなり難解で、ひとことで説明するなら、「文学的内容の形式」を「焦点的印象又は観念」を意味する F と「これに附着する情緒」を意味する f が結合した「F+f」からなるものとして、その多様な組み合わせを論じたものである。この講義を行うに当たって、漱石は科学関係の書物をかなり読み込んだらしい。
 私が漱石の『文学論』に目をつけたのは、いささかわけがある。「収束」のおさまりがつくという意味は、数学の、ある値に限りなく近づくことという意味や、光学で多くの光線が一点に集まるこという意味から来ているのではないかと思ったからだ。『文学論』のために漱石が科学関係の本を読み込んでいたのなら、ありえるのではないかと。すると案の定「収束」は使われていた。私は、比較的近いところで2か所見つけたのだが、一つはこんな例である。

 「他の小説にあっては観察をうくる事物人物が発展し収束し得るが故に読者は之を以て興味の中枢とするを得べきも」(第四編・第八章)

難解な文章だが、おさまりがつくという意味の例だと考えて間違いなさそうだ。そしてこの例が、『日国』としても『道草』よりも古い例として引用できる。
 それともう一つ、こじつけかもしれないが『文学論』には興味深いことがある。『道草』との関係である。『道草』は『文学論』のほぼ10年後に書かれたのだ、主人公健三は漱石自身と思われ、おのれの研究に心血をそそいでいた人物として描かれている。それは『道草』の内容からすると、ちょうど『文学論』の時代と重なっていそうなのである。だとすると、どちらにも「収束」が使われていたのは、ただの偶然ではないような気がするのだ。
 今のところ状況証拠しかないが、今後もし、おさまりがつくという意味で「収束」を初めて使ったのは漱石だということが解明されれば、これほど喜ばしいことはない。でも、私の単なる妄想でしかなく、最初に使ったのは他の人だったとしても、それはそれですごい発見だと思う。そう思うのは辞書編集者だけかもしれないが。

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 おかしなタイトルだが、日本ではいつ頃からbaseball(ベースボール)を「野球」と言うようになったのかという話である。コロナ禍で開幕が遅れていたプロ野球も、無観客ではあるが開幕できそうだというので、一ファンとしてこんな文章を書いてみた。と言っても、『日本国語大辞典(日国)』にかかわる話なのだが。
 その『日国』だが、「野球」の項目で引用している一番古い例は、押川春浪の『海底軍艦』(1900年)である。ところが、同項目の語誌欄を見ると、「明治二六(一八九三)年頃に一高ベースボール部の中馬庚らが『野球』の語を考え出し、同部史(明治二八年)の表題として用いた。」と書かれている。それなら、なぜ中馬の書いたものから「野球」の用例を探さなかったのだろうかという、ほとんど自分へのツッコミのような疑問を感じたのである。
 中馬というのは当時東京帝大の学生で後に教育者になった中馬庚(ちゅうまかのえ・ちゅうまんのかのえ)のことで、彼は1897年には野球指導書『野球』を著わしている。だったら、間違いなくこの本に「野球」の使用例があるはずだと思って探してみると、拍子抜けするくらいすぐに見つかった。この本は現在、国立国会図書館のデジタルコレクションで読むことができるのである。
 『日国』第2版の編纂当時、国会図書館のデジタルコレクションはまだ未公開だったから、この本を探せなかったと言ってしまえばそれまでなのだが、中馬のことがわかっていたのなら、なぜもっと踏み込んで用例を探さなかったのだろうかと、当事者として忸怩たるものがある。
 その『野球』で、中馬は序言の冒頭で以下のように述べている。

「昨年来野球ノ名都鄙ニ喧伝スルモ未タ其実ヲ知ラサル者多キヲ憾ミ不文ヲ顧ミスシテ此稿ヲ起セリ」

さらに「野球ノ大要」として、

「此技ハ北米合衆国ノ国技ニシテ彼ニアッテハBase Ball ト称シ我ニアッテハ明治二十六年四月以来第一高等中学校ニ於テ其野外ノ遊戯ナルヲ以テ庭球(ローンテニス 筆者注ルビ)ニ対シテ野球ト命名セルヨリ原名ト併用セラルルニ至レリ」

と書いている。もう立派な(?)「野球」の用例ではないか。しかも、「野球」という語を広めようとしてそれほど経っていないこと、「ベースボール」という名称と併用されているということもわかる。現在の『海底軍艦』よりもわずか3年しか遡れないにしても、改訂版では増補できそうだ。辞書編集者にとって(私だけかもしれないが)、数年でもそのことばのさらに古い用例を見つける喜びにまさる喜びはない。
 ところで、この『野球』の例を増補したとしても、今まであった『海底軍艦』の例も捨てがたい。作者の押川春浪は軍事冒険小説を数多く書いた作家である。『海底軍艦』は、海賊船に船を沈められた「私」と浜島日出雄少年が、インド洋の南方にある無人島に漂着するのだが、その島では日本海軍の桜木海軍大佐が秘密裏に海底戦闘艇を建造していたというストーリーである。そしてこの島ではなぜか野球が盛んだったのだ。『海底軍監』はナショナリズム色の濃い作品だが、明治大正の子どもたちは盛んに愛読したらしい。そういう作品に本来のストーリーとは関係なく野球の話が登場するというのは、野球という用語が瞬く間に広まり、子どもこぞって野球をやり始めていたことがわかる。この『海底軍艦』の「野球」の例の面白さは、そこにあると思う。

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 歌を歌うことは嫌いではないので、たまにカラオケに行くこともある。ただ、今はコロナ禍でカラオケ店も営業を自粛していて、ずいぶん行っていないのだが。
 カラオケで歌う歌は二人で歌うデュエット曲もあるが、ふつうはマイクを持った一人が歌うのだから、あえて言うならそれは「独唱」だろう。最後にみんなで歌える歌を歌ってお開きにしましょうと言って、参加者全員で歌うこともあるが、それはやはり「合唱」になるだろう。なぜそのようなことをわざわざ確認したのかというと、次のような文章を見つけたからだ。

 「臨時カラオケ大会はいくみによる国歌斉唱からスタートした。絶対に負けられない戦いの前には、まず国歌だと言って聞かなかったのだ。なぜか全員起立して胸に手を当て、いくみの国歌を聴かされる。」

 川岸殴魚(かわぎしおうぎょ)のライトノベル『人生』(2012年)の一節である。この中の「国歌斉唱」は何人で歌っているのだろうかと、ふと思ったのである。というのも、「斉唱」は『日本国語大辞典(日国)』によれば、「声をそろえて歌うこと。特に現代では多人数の歌い手が同じ旋律を同じ高さ、またはオクターブ高低させた声で歌うこと。和声をもたない点で合唱と区別される。ユニゾン。」とあるからだ。つまり、「斉唱」は大勢で歌うことであり、決して一人で歌うことではない。これは、他の国語辞典の説明も同様だろうし、音楽用語辞典のような専門の辞典でも変わらないと思う。
 だとすると、引用した文では国歌を歌っているのは「いくみ」一人で、他のメンバーはそれを聴いているだけなので、辞書的な意味とは違うことになる。
 この『人生』という小説の「斉唱」の使い方が誤用だと言いたいわけではない。ただ、「斉唱」をこのような意味、つまり一人で歌うときにも使うことがわずかながら増えているように感じられて、興味深いと思ったのである。
 「斉唱」の「斉」は、ひとしくするということで、同じにする、そろえる、あわせるという意味である。だから、「斉唱」は声をそろえて歌うという意味になるのだが、なぜ一人で歌っても(つまり「独唱」)でも「斉唱」と言ってしまうのだろうか。
 勝手な想像だが、スポーツなどのイベントで国歌を歌うことがあるが、その際に有名な歌手などが登場して「独唱」することがある。だが式次第やアナウンスなどでは、それを「国歌斉唱」と表現していることが多い。おそらく、主催者側は、歌手に合わせて観客全員で「斉唱」してもらいたいと意図しているに違いない。だが、実際には歌手が代表して歌っているように思われて、斉唱=代表者が一人で歌うという意味に捉えられてしまったのではなかろうか。だとすると、引用した小説で「斉唱」を使った作者の意図も説明できそうである。
 もし一般語としての「斉唱」にも「独唱」に近い意味が広がっているとしたら、国語辞典としても何らかの対応をしなければならなくなる。しかもそれは専門用語としては間違いなのだから、それをどう考えるかということにもなってしまう。扱いに悩みそうな語である。

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 メディアもインターネットも、新型コロナウィルス関連の情報であふれかえっている。だが、それらの中には不確かな情報もかなり紛れ込んでいるようで、「デマ」、「ガセ」だから鵜呑みにしないようにと、注意を呼びかけているものもしばしば見受けられる。そうなると、いったい何を信じていいのかわからなくなってくる。現代のようにさまざまな情報が飛び交うというのも、善し悪しなのかもしれない。
 ところで、この「デマ」と「ガセ」だが、今は同じような意味で使われているものの、本来はまったく違う意味だったということをご存じだろうか。2語を合わせると「でまかせ」という語に似ているが、「でまかせ」は「出・任せ」で、その場で口から出るにまかせてしゃべるでたらめのことをいい、まったく関係がない。
 「デマ」はドイツ語の「デマゴギー Demagogie」の略で、元来は「政治的な目的で相手を誹謗(ひぼう)し、相手に不利な世論を作り出すように流す虚偽の情報。また、社会情勢が不安な時などに発生して、人心を惑わすような憶測や事実誤認による情報。」(『日本国語大辞典(日国)』)という意味である。つまり、望ましくない政治手法として、本来は非難の意味を込めて用いられた語なのである。これが、一般に広まって、単なる悪口や根拠のないうわさ話の意味で使われるようになったというわけだ。
 一方の「がせ」は『日国』によれば、「にせもの、まやかしものをいう、てきや・盗人仲間の隠語」である。つまりこちらは「ガセ」と書かれることも多いが、日本語なのである。ただ、なぜ「がせ」というのかはよくわかっていない。「騒がせる」「お騒がせ」の「がせ」からだという説もあるようだが、「がせ」には「偽造通貨、偽画、偽書などの偽造品。また、それらを使う詐欺をいう」(『日国』)という意味があり、偽造品は決して「騒がせて」はいけないものだろうからこの説はかなり怪しい。
 いずれにしても、「デマ」と「ガセ」はまったく別の語だったのである。だが、最近はほとんど同じ意味で使われているわけで、もちろんそれはそれでなんら問題はない。ただ、せっかくの機会なので、本来の意味の違いを知っていても損はない気がする。
 なお、最近は同じ意味で「フェイク」「フェイクニュース」などと言う人もいる。もちろんそれもなんら問題はないことだが、年配者には(私も含めて)、「フェイク」よりも「デマ」「ガセ」の方が意味が通じやすい気がする。従って、その世代に向けて、むやみに信じてはいけない情報だということを伝えたいのであれば、「デマ」「ガセ」の方が理解されやすいということを申し添えておきたい。

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