日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。

第302回
「苦肉(くにく)」はどこの肉が苦しいのか?

 「苦肉の策」の意味を皆さんはどのようにお考えだろうか。おそらく、考えあぐねてやっとひねり出した方策、計略の意味だとお思いになっている方がほとんどなのではないだろう。つまり「窮余(きゅうよ)の一策」と同義であると。
 確かに最近の小型の国語辞典はその意味だけを載せているものが多いのだが、実はそれは本来の意味ではない。敵を欺く手段としてわが身を苦痛におとしいれてまでするはかりごと、というのが本来の意味なのである。
 そもそも「苦肉」自体が敵を欺くために自分の身を苦しめるという意味で、「苦肉の策」以外にも「苦肉の計」「苦肉の謀(はかりごと)」などの言い方もある。
 江戸時代の川柳句集『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』にはこんなすさまじい句がある。

 「ゆび切るも実は苦肉のはかりごと」

 かつて遊郭では、遊女と客との間で誓約の証や心中のほどを見せようとして、遊女が小指を切って男に贈るということがあったそうだが、そのことを詠んだ句である。その行為こそわが身を苦痛におとしいれてまで行う手練手管の苦しいはかりごとであると言っているのである。
 また、江戸後期のことわざ辞典『譬喩尽(たとえづくし)』には、

 「苦肉(くにく)の謀(はかり) 三国志我朝安宅義経弁慶打是也」

とある。
 「三国志」と言っても、中国三国時代の歴史を記した陳寿(ちんじゅ)撰の『三国志』のことではない。それをもとにした歴史小説『三国志演義』のことで、そこに描かれた劉備(りゅうび)と孫権(そんけん)の連合軍が曹操(そうそう)の軍を破った「赤壁の戦い」の話である。どのような内容かというと、呉の孫権の武将黄蓋(こうがい)は上官の周瑜(しゅうゆ)に逆らって棒で打たれ、体に傷を負ったまま魏(ぎ)の曹操軍に投降する。だがこれは魏の水軍の密集ぶりを見て、わざと敵陣に侵入して艦船に火を放つためにわが身を傷つけた計略、すなわち「苦肉の策」だったのである。これにより劣勢であった劉備・孫権の連合軍は圧倒的な軍勢を誇る曹操軍に勝利するのである。
 また、「我朝安宅義経弁慶打是也」とは、歌舞伎(かぶき)『勧進帳(かんじんちょう)』でも有名な、加賀国の安宅関(あたかのせき)を東大寺勧進の山伏に身をやつした源義経主従が、武蔵坊弁慶の知略で無事に通過する物語のことである。弁慶が白紙の巻物を勧進帳とみせかけて読み上げるのだが、番卒に見とがめられた義経を弁慶がとっさに杖で打ちすえ危機を脱するのである。自分の身を直接痛めつけるわけではないが、主の体を打擲(ちょうちゃく)する弁慶の心はわが身を打ちすえるのと同じであったろうから、これまた「苦肉の策」だったと言えよう。
 「苦肉の策」を、相手を欺く手段として自分の身を苦しめるという意味で使った例は、最近ではまったくと言ってもいいほど見かけなくなってしまった。だが、『誹風柳多留』『譬喩尽』のような用例から、もともとの意味を探ってみるのもけっこう楽しいのではないかと思うのである。

★神永曉氏、朝日カルチャー新宿教室に登場!
 辞書編集ひとすじ36年の、「日本語、どうでしょう?」の著者、神永さん。辞書の編集とは実際にどのように行っているのか、辞書編集者はどんなことを考えながら辞書を編纂しているのかといったことを、様々なエピソードを交えながら話します。また辞書編集者も悩ませる日本語の奥深さや、辞書編集者だけが知っている日本語の面白さ、ことばへの興味がさらに増す辞書との付き合い方などを、具体例を挙げながら紹介されるそう。
講座名:辞書編集者を惑わす 悩ましい日本語
日時:5月21日(土)13:30-15:00
場所:朝日カルチャーセンター新宿教室
住所:東京都新宿区西新宿2-6-1 新宿住友ビル4階(受付)
くわしくはこちら→朝日カルチャーセンター新宿教室

キーワード: