日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。

第306回
「煮え湯」は誰に飲まされるのか?

 まずは以下の文章をお読みいただきたい。

 「五年以前あの賊のために、ひどく煮え湯を呑ませられましてな。……いまだに怨みは忘れられませんて」(国枝史郎『名人地獄』1925年)

 この文章を書いた国枝史郎は伝奇性の富んだ小説を数多く発表した大正~昭和前期の作家である。
 みなさんはこの引用文にある「煮え湯を呑(の)まされた」ということばの使い方に違和感をもつことはないであろうか。
 なぜそのようなことを言うのかというと、「煮え湯を飲まされる」は信用している人から裏切られひどい目にあわせられる、という意味のことばだからである。たとえば「腹心の部下に煮え湯を飲まされる」 のような言い方が本来の意味なのである。ところが、この語を敵やライバルなどからひどい目にあわせられるという意味で使う人が増えているらしい。この『名人地獄』の例もまさにそれで、「賊」というのは信頼している人間とは間違っても言えないであろう。
 お手元に国語辞典があったらぜひこの語を引いていただきたいのだが、ほとんどの辞書では、語の意味の最初に「信頼する人から」とか「信用している人から」とかいう条件がつけられているはずである。
 「煮え湯」は沸騰した熱湯という意味だが、信頼していた者から熱湯を出されて、何の疑いも抱かずにいきなり飲んでしまったらひどい目にあったということである。それが、信頼していた者からという本来の意味にあった部分がだんだん薄れてしまって、単にひどい目にあわせられるという意味で使われるようになったものと思われる。
 文化庁が発表した2011(平成23)年度の「国語に関する世論調査」では、「煮え湯を飲まされる」を、本来の意味とされる「信頼していた者から裏切られる」で使う人が64.3パーセント、本来の意味ではない「敵からひどい目に遭わされる」で使う人が23.9パーセントという結果が出ている。この調査の結果では、新しい意味で使うという人はまだ少数派ではあるが、16~19歳に限ってみると、従来の意味で使う人41.0パーセント、新しい意味で使う人37.2パーセントと、その割合がかなり拮抗しているのである。
 この世代がやがて日本をになう年齢に達したときには、新しい意味が優勢になるのかもしれない。そしてそれとともに、国語辞典としても何らかの対応を求められるようになるかもしれないのである。

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 辞書編集ひとすじ36年の、「日本語、どうでしょう?」の著者、神永さん。辞書の編集とは実際にどのように行っているのか、辞書編集者はどんなことを考えながら辞書を編纂しているのかといったことを、様々なエピソードを交えながら話します。また辞書編集者も悩ませる日本語の奥深さや、辞書編集者だけが知っている日本語の面白さ、ことばへの興味がさらに増す辞書との付き合い方などを、具体例を挙げながら紹介されるそう。
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