日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。

第370回
「しがらみ」──マイナスの意味のことばではなかった

 いつのころからか、「しがらみ政治」「しがらみのない政治」などのように、「しがらみ」ということばをよく聞くようになった。このことばを党綱領で使っている政党もある。曰く、「国政の奥深いところにはびこる『しがらみ政治』から脱却する。」と。
 後述するが、「しがらみ」という語自体はかなり古いことばである。だが、政治で使われ出したのはかなり新しい。

 例によって国会会議録で検索してみると、「しがらみ」の件数は昭和(終戦後)では、144件だが、平成になると537件ある。つまり政治の世界では平成になってから盛んに使われるようになったことがわかる。平成になって「しがらみ政治」の傾向が強くなったということではなく、従来の利害関係に捕われた政治から脱却すべきであるという文脈で使われることが多くなったからであろう。確かに「しがらみ」にはその音(おと)ゆえか、何やらしつこくまとわりついてくるような印象を受ける。だが、本当にそのようなマイナスイメージのことばなのであろうか。
 「しがらみ」という語は、動詞「しがらむ(柵)」の連用形が名詞化したものである。「しがらむ」は、からみつける、まといつける、からませるといった意味である。これが、名詞となって、水流をせき止めるために川の中に杭(くい)を打ち並べ、その両側から柴(しば)や竹などをからみつけたものをいうようになる。漢字では「柵」と書くが、「柵」は角材や丸太などを間隔を置いて立て、それに横木を渡した囲いが本来の意味である。
 「しがらみ」の使用例は古く、『万葉集』(8C後)に柿本人麻呂の歌として、

 「明日香川しがらみ渡し塞(せ)かませば流るる水ものどにかあらまし」(巻二・一九七)

 という歌がある。歌意は、「明日香川にしがらみをかけ渡してせき止めていたら、流れる水もゆったりとしていたであろう」というものである。天智天皇の皇女であった明日香皇女(あすかのひめみこ)が死去し、その殯宮(もがりのみや=仮埋葬の期間に行われる喪儀の宮)で人麻呂が詠んだ短歌である。おそらく、何らかの策を講じていれば明日香皇女の命ももっと長らえていただろうという、痛恨の思いを詠んだ歌であろう。この歌の「しがらみ」にはマイナスのイメージはない。むしろ、悪化するものをとどめてくれるものというプラスのイメージすら感じられる。
 この川をせき止めるものの意味から転じて、物事をせき止めたり、引き止めたりするもの、さらには、マイナスのイメージのあることばとして、まとわりついて身を束縛したり邪魔をしたりするものという意味になる。
 だが、明治のころにはまだマイナスの意味ではない使用例も見受けられる。たとえば、1889(明治22)年10月~94(明治27)年8月に森鴎外を中心として「しがらみ草紙」という文芸雑誌が刊行されるのだが、これは文壇の流れに柵(しがらみ)をかけるという使命感のもと創刊されたのだという(『日本大百科全書(ニッポニカ)』)。この場合の「しがらみ」は悪化するものをとどめるものという意味で、決してマイナスの意味合いではない。
 ただ、江戸時代以降、「義理のしがらみ」「浮世のしがらみ」などといった、身を束縛するものという意味でも使われるようになり、マイナスの意味での用法も多くはなっていたのだが。
 「しがらみ」の名誉(?)のために繰り返すが、本来は決してマイナスの意味合いのことばではなかったのである。

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