第401回
「森羅万象」は政治用語?

 「森羅万象」という語が話題になった。2019年2月6日の参議院予算委員会で、安倍晋三総理が「総理大臣なので森羅万象すべて担当している」と発言したことによる。「森羅万象」の意味は、『日本国語大辞典(日国)』によると「宇宙間に数限りなく存在するいっさいの物事」ということなので、ずいぶん大きく出ちゃったなという気がしないでもない。
 今回その「森羅万象」について書こうと思っているのだが、だからといってこのような発言をした安倍総理について、何か私見を述べたいと思っているわけではない。
 辞書編集者として、この語の意味のこれからについて考えるいい機会を与えてくれたと思っているだけである。というのも、安倍総理の発言が大きく取り上げられてしまったが、実は「森羅万象」は政治家が好んで使うことばだからなのだ。しかも、その意味は、辞書に載っている本来の意味とはかなり異なる。
 もちろん政治家が好んで使うからといって、「森羅万象」は政治用語ではない。ところが、このコラムでも何度も利用している「国会会議録検索システム」でこの語を検索してみると、全体で211件使われていることが分かる。
 同システムで利用可能な会議録は、第1回国会(1947年5月開会)以降のすべての本会議、委員会などで、会議録の号ごとに順次掲載されている。現時点では今年の安倍総理の発言までは掲載されていないため、いちばん新しい「森羅万象」は2018年2月2日のものである。もっともその発言者も安倍総理なのだが。
 政治家が好んで使っていると考えたのは、その211件のうち、1947~1969年の昭和のときが119件、平成になってからが92件と満遍なく使われているからである。しかも興味深いことが一つある。同システムでは、帝国議会の第1回~第92回(1889年11月~1947年3月)の会議録も別に検索できるようになっているのだが、「森羅万象」は1946、47年で各一回使われているだけなのである。少なくとも国会では、「森羅万象」は戦後使われ始め、政治家の間に伝染していったように見える。
 政治家が好んで使うことばは、例えば「是々非々」など他にもあるが、この「森羅万象」の何が政治家の心をつかんだのだろうか。
 さて、辞書編集者として気になるこのことばの意味のこれからのことである。「森羅万象」の確認できる最も古い例は『日国』によれば、曹洞(そうとう)宗の開祖道元が書いた仏教書『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』(1231〜53)で、仏教語としても使われていたと思われる。ただしその際には、「シンラバンショウ」ではなく、「万」「象」を仏教関係の用語の読みに用いることが多い呉音の「マン」と「ゾウ」と読んで、「シンラマンゾウ」と言っていた可能性が高いのだが。それはさておき、仏教語としても用いられていたように、「宇宙間に数限りなく存在するいっさいの物事」が本来の意味である。
 ところが、安倍総理の発言もそうなのだが、「森羅万象」の後に「すべて」と言い換えているところを見ると、「森羅万象」を「すべて」「ことごとく」といった意味でとらえている人がいるのかもしれない。国会での他の使用例も、多くがその意味で使っているように見受けられる。つまり、「森羅万象」に本来なかった新しい意味が生まれつつありそうなのだ。もちろん、本来の意味が薄められて使われることは、ことばにはよくあることなので、驚くには当たらない。辞書編集者としては粛々と観察し続けるしかない。ただ、「森羅万象」の新しい意味が国会に限らず一般に広まって、辞書にも載せなければならないということになったら、私自身は遺憾に思う気がするのである。

 

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