第403回
「善玉」と「悪玉」

 私が編集にかかわった『日本国語大辞典』(『日国』)には、5千点近い図版(挿絵)が収録されている。第二版では動植物を中心に増補したが、初版からのものは過去の文献に掲載されているものを参考に、新たに描き起こしたものがほとんどである。過去の文献によった図版は、本文中の例文と同じように、キャプションに参考にした文献名も添えている。
 私はこれらの図版はほとんど担当することはなかった。だが、ゲラを読むときに、時々出てくる図版を見るのは、ちょっとした息抜きになっていた。そしてお気に入りの図版もいくつかあった。今回はその一つをご紹介したいと思う。
 それは「悪玉(あくだま)」という項目の図版で、山東京伝作の黄表紙(きびょうし)『心学早染艸(しんがくはやぞめぐさ)』(1790年)からのものである。
 下に示したように、顔が「善」「悪」の文字になっている人物が若い男の両腕を引っ張っている。そして、その脇では遊女とおぼしき女性がその様子を見ている。『心学早染艸』は目前屋理太郎という商家の息子が、悪魂によって放蕩したことから勘当され、盗賊にまで落ちるのだが、やがて善魂によって教化されるというストーリーである。
 この「善」「悪」の字の人物は魂を表していて、この絵を見る限りでは悪魂の方が勢力が強そうである。そしてこの善魂・悪魂がのちに「善玉」「悪玉」と呼ばれるようになる。『心学早染艸』では「善玉」「悪玉」ということばそのものは使われていないが、この小説によって「善玉」「悪玉」ということばが生まれたと考えられている。この絵がまさにその根拠とされるものなのである。
 「善玉」「悪玉」の「玉」は人の意味で、「善人」「悪人」と置き換えられる。これは人間の心に善悪の二つがあるとする心学の説による。心学は石門心学とも呼ばれ、江戸後期に石田梅巌(ばいがん)により唱(とな)えられ、庶民の間に広まった実践道徳の教義である。儒教を根本とし、神道・仏教を融合して平易に説いたものである。
 『心学早染艸』はそのタイトル通り、京伝が当時流行していた心学の教説を取り入れて書いた小説なのである。
 この「善玉」「悪玉」だが、とても面白い話を近世文学の棚橋正博氏にお聞きしたことがある。この「悪玉」が若者に受けてしまい、「悪」と書いた丸提灯をさおにくくりつけて高くかかげた少年たちが、夜な夜な街中を走りまわり、町奉行が禁止令を出したほどであったというのである。まるで暴走族である。
 今では、「善玉」「悪玉」は芝居や映画などでも使われるようになり、「善玉」は善人の役、「悪玉」は悪人の役を言う。また、「善玉」は良い作用を及ぼすものという意味で「善玉コルステロール」「善玉菌」などと言い、「悪玉」はその逆の意味で「悪玉コレステロール」「悪玉菌」などの形で使われるようになっている。
 今も生きていることばの根拠が江戸時代の小説の挿絵に求められるなんて、なんだか面白いではないか。



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