日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。

第404回
「ひとかたならぬ」と「ひとかたならない」

 まずは、以下の文章をお読みいただきたい。国枝史郎(1888~1943)の短編小説『甲州鎮撫隊』(1938年)の一節である。

 「『松本先生には、君は、一方(ひとかた)ならないお世話になった筈だ』『現在(ただいま)もお世話になっております』」

 「松本先生」というのは、幕末・明治の医師で、初代陸軍軍医総監となった松本良順、そして、その「松本先生」の世話になっているというのは、新撰組隊士の沖田総司(おきたそうじ)である。『甲州鎮撫隊』はこの沖田総司の最期を描いた作品なのだが、この引用文のどこに注目していただきたかったのかというと、「一方ならないお世話」という部分についてである。と言うのも、私だったら「一方ならぬお世話」と言うはずだからだ。意味は、一通りでない、尋常一様でないということである。
 「一方ならない」と「一方ならぬ」、「ない」と「ぬ」はともに否定の助動詞であるが、どのような違いがあるのだろうか。
 その前に「一方」について触れておくと、この場合は「ひとかた」と読み「いっぽう」とは読まない。普通であること、一通りという意味である。
 この「一方」に断定の助動詞「なり」の未然形「なら」がついて、さらに打消の助動詞「ず」の連体形「ぬ」がついたものが、「一方ならぬ」である。この場合、「なり」も「ず」も古語なので、「一方ならぬ」も古語だといってよい。そう考えると、「一方ならぬ」という言い方自体が日常語ではなくなっているとも考えられる。だから、本来の言い方がわからなくなってしまい、打消の助動詞「ず」に相当する現代語の助動詞は「ない」なので、冒頭の引用文のように「一方ならない」という言い方が生まれてしまったのかもしれない。だが、古語「なり」に現代語「ない」を接続させるのは無理がある。
 ただ、日常語としてはあまり使われなくなっていることは確かだが、礼状や年賀状などでは今でも使われることが多い。「一方ならぬ〔お引き立て・ご高配・ご愛顧・ご厚情・ご支援・ご用命・ご協力・ご指導〕を賜り(あずかり・いただき)」などのように。「一方ならない」を完全な誤用と切り捨てるつもりはないが、やはり改まった場面で使われることの多いことばなので、「一方ならぬ」を使った方が無難であろう。
 なお、最後に一言お断りしておく。国枝史郎の文章を本来の言い方とは違う例として引用したが、だからといって国枝のこの作品の価値を否定するつもりは毛頭ない。国枝は『蔦葛木曾桟(つたかずらきそのかけはし)』『神州纐纈(こうけつ)城』といった伝奇小説を数多く書いているが、『甲州鎮撫隊』にはそのような伝奇的な色合いは見られないものの、沖田総司の死と彼を巡る二人の女性の葛藤を描いた佳品だと思っている。

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