日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。

第414回
「お前」と言われたら・・・

 今年、プロ野球ファンの私にとって、野球とは別に、注目すべき出来事があった。中日ドラゴンズの与田監督が、応援団が歌う応援歌に「お前」ということばが使われていることに対して、疑問を呈したことである。チームが好機の際に歌われるチャンステーマに、ピンク・レディーの「サウスポー」の歌詞を、「お前が打たなきゃ誰が打つ」と替えて歌っていたところ、与田監督が、「選手にお前というのはどうなのか」「子どもも多く観戦する中で、そういう表現はいかがなものか」と言ったというのだ。
 ひと言お断りしておくと、中日は私のひいきのチームではないが、だからといって与田監督の考えを批判しようと思っているわけではない。ただ、この「お前」ということばは、時代とともに意味が変遷した語なので、ご存じの方も多いだろうが、一応その流れを押さえておいてほしいと思ったのである。
 「お前」は「御前」と書くのだが、古くは、神仏や貴人の前を敬っていう語であった。「おそば近く」といった意味もある。これがやがて、貴人に対して、その人を直接ささずに、尊敬の意を込めた言い方として使われるようになる。そしてさらには、人称代名詞、すなわち、話し手が聞き手をさし示す語としても用いられるようになった。
 これが、問題の「お前」である。
 当初、この「お前」は、目上の人に対して、敬意をもって用いられていた。例えば、平安時代から室町時代頃までの使用例は、ほとんどがその意味である。
 ところが江戸時代になると、面白いことに、対称になる相手の立場がどんどん下がっていく。江戸時代の国語辞書『俚言集覧(りげんしゅうらん)』(1797年頃)に、「御前(オマヘ)。人を尊敬して云也、今は同輩にいふ」とあるので、江戸中期には敬意がかなり失われていたことがわかる。そしてその後も敬意が失われ続け、現在のように、同輩どころか、下位者にまで用いるようになるのである。
 与田監督が反応したのは、この下位者に対して使われる点であろう。確かに、「お前のせいで負けたんだぞ」「お前が悪い」と言われると、いわゆる“上から目線”のようで、言われた側はあまりいい気持ちはしないであろう。
 ただ、「お前」はこのようにぞんざいな言い方でも使われる一方で、「ここはお前だけが頼りなんだよ」と、親しみを込めた言い方で使われるということも見落としてはならないであろう。私には、ドラゴンズの応援歌はそのような意味に聞こえる。
 ことばは一面だけで判断して何でも排除しようとするのではなく、多面的に考えた方が、風通しがよいような気がするのだが、いかがであろうか。

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