第429回
「心血」は、「注ぐ」?「傾ける」?

 心身の力のありったけを尽くして、何かを行うことを「心血を注ぐ」という。例えば、地理学者、志賀重昂(しがしげたか)が日本の風光について論じた『日本風景論』(1894年)にも、

 「一代の英物たる野中兼山が心血を澆(そそ)ぎて鑿通せし各処の溝渠運河は」(三)

とある。ここでは、江戸前期の土佐藩の家老野中兼山(のなかけんざん)が、まさに「心血をそそい」で完成させた治水灌漑工事のことを述べている。
 ところがこの「心血をそそぐ」を、「心血を傾ける」と言う人がいる。
 文化庁が2007(平成19)年度に行った「国語に関する世論調査」でも、「心血を注ぐ」を使う人が64.6パーセント、「心血を傾ける」を使う人が13.3パーセントと、「心血を傾ける」という人は、多くはないが存在することがわかる。しかもその調査では、「心血を傾ける」と答えた人は、50代と60歳以上になると、他の世代よりも多くなっている。
 「心血を傾ける」と言ってしまうのは、おそらく「心を傾ける」や「精魂(精根)を傾ける」といった表現との混同だろう。50歳代以上になると「心血を傾ける」が増えてくるのは、ことばをあいまいに覚えていて、他の表現と混同する人が多くなるせいなのかもしれない。
 私も人ごとではない。
 「心血を傾ける」は本来の言い方ではないため、『明鏡国語辞典』はこれを「誤り」としている。私も、「心血を傾ける」が本来の言い方ではないと認めるにやぶさかではないが、かといって『明鏡』のように「誤り」と断定することについては、いささかためらいがある。というのも、哲学者三木清の『語られざる哲学』(1919年)にこんな使用例があるからだ。

 「書籍の中でも偉大なる人々が心血を傾け尽して書いたものを顧みることは、旧思想との妥協者として譏られる恐れがあったので」

これ1例だけだった、つい筆が滑ったということも考えられるだろう。だが、他にも夢野久作の『木魂(すだま)』(1934年)という小説に、

 「心血を傾けて編纂しつつある『小学算術教科書』が思い通りに全国の津々浦々にまで普及した嬉しさや」

という例がある。夢野は他の作品では、「心血を傾注する」(『ドグラ・マグラ』1935年刊)とも書いている。また、明治時代のジャーナリスト鳥谷部春汀(とやべしゅんてい)は「心血を傾倒する」(『明治人物月旦』「大隈伯と故陸奥伯」1907年)と書いている。
 これらの例からわかることは、「心血を傾ける」あるいはそれに類似する言い方は、最近生まれた言い方ではないということである。
 実は、最初に示した志賀の『日本風景論』は1894年の刊行だが、これは『日本国語大辞典』の「心血を注ぐ」の項目で一番古い例として引用している内田魯庵(うちだろあん)の随筆『嚼氷冷語(しゃくひょうれいご)』(1899年)よりもさらに5年古い。だが、それとくらべて、『語られざる哲学』『木魂』はどうだろう。最大で40年しか違わない。明治から大正、昭和にかけての40年は、決して短くはないが、こと日本語に関しては、時代的に大きな断はないような気がする。50代以上、つまり私と同じ世代を擁護するわけではないが、「心血を傾ける」も誤用とはいえない気がするのである。

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