日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。

第445回
「御自愛専一に被遊候」

 最近は手紙を書くことがほとんどなくなり、用件はもっぱらメールで済ませてしまう。ただメールでも、手紙の形式に則って書いた方が据わりがいい気がするので、末尾に「時節柄ご自愛下さい」などと、いかにも手紙文らしい文章を添えることもある。どちらかといえば儀礼的に添えていたものだが、このコロナ禍にあっては、「自愛」ということばの重みが増した気がしてならない。自分も含めて、今は「自愛」するしかないのだというような。
 ところで、この「自愛」ということばだが、手紙の中で普通に使われるようになったのは、いったいいつ頃からなのだろうか。この語自体の使用例はけっこう古く、『日本国語大辞典(日国)』によれば、奈良時代の史料を集めた「寧楽遺文(ならいぶん)」(竹内理三編)所収の『家伝』(760年頃)で使われている。だが、これは手紙文ではない。
 『日国』ではその次に引用されている『明衡往来(めいごうおうらい)』(11世紀中頃)の例が、手紙文のものである。「往来」とは手紙のことで、『明衡往来』は、男子用の手紙の文例集である。そこで「自愛」は、「自愛玉躰、不可混風塵之客」という文章の中で使われている。「玉躰」は「玉体」で相手の体を敬っていう語、「風塵」は俗世間のことなので、自愛なさって、俗世間の雑事に煩わされないように、ということのようだ。
 その後も「自愛」は手紙文の中で使われ続けたようで、『日国』には引用されていないが、『浮世風呂』『浮世床』の作者として知られる式亭三馬 (しきていさんば)撰の『大全一筆啓上 (たいぜんいっぴつけいじょう)』(1810年)という手紙文例集にも使用例がある。そこに収録された病気見舞いの手紙の文例の中に、「折角御自愛可被成候」とある。「折角御自愛なさるべく候」と読み、「折角」は、つとめて、全力を傾けてという意味だ。この『大全一筆啓上』は、インターネットでデジタル画像を閲覧できるので、興味のある方はぜひご覧いただきたい。お家流の立派な文字で書かれている。この本は模刻本(複製本)も数多く存在するので、かなり売れたのかもしれない。だとすると、これによって「自愛」の文例が広まった可能性はじゅうぶんにある。
 極めつけは、『日国』で引用している、明治時代の小学校の国語の教科書『小学読本』(若林虎三郎編 1884年)の以下のような例だろう(読みを補った)。実は今回のタイトルには、その一部を使っている。
 「厳寒の時節尊体御自愛専一に被遊候(あそばされそうろう)」(五)
 若林編の『小学読本』は、明治期に検定教科書が生まれる以前の教科書である。この教科書がどの程度使われたのか不明ながら、小学生にこのような手紙の文章を教えようとした点が何よりもすごいと思う。「時節柄、ご自愛専一にてお願い申し上げます」という表現は、今でも改まった手紙で時々見かけるが、こんな手紙を小学生からもらったら、きっと腰を抜かしてしまうに違いない。
 それはさておき、今このようなときに「自愛」を呼びかけることは、つくづく大切なことだと思う。だから、時節柄どうか皆さまもご自愛くださいますように。

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