第451回
「苦敗」って語は存在する?

 まずは、2020年3月2日の「東京新聞」首都圏ニュースに掲載された記事の見出しをお読みいただきたい。

 「本田五段 苦敗でカド番に 棋王戦第3局」

 何のことだろうとお思いになったかもしれないが、今回話題にしたいのは、「カド番」に追い込まれた将棋の本田五段のことではない。ここで使われている、「苦敗」という語についてである。この語は、国語辞典の見出し語にはなっていないが、辞書によっては解説の中に登場する不思議なことばなのである。
 いささか持って回った言い方をしてしまったが、こういうことだ。たとえば、『大辞泉』の「苦杯を嘗(な)める」の「補説」を見ると、

 「『苦杯』を『苦敗』と書くのは誤り」

と書かれている。他にも、『明鏡国語辞典』は第3版(2021年)になって、同様の注記が追加された。
 確かに、「苦杯をなめる」は苦い経験をするという意味で、この意味で「苦敗をなめる」とするのは誤りである。「苦杯」はにがい酒を入れたさかずきのことで、それから転じて、にがい経験の意味になった語だからである。
 「苦敗をなめる」と書いてしまうのは、2つのケースが考えられるのではないだろうか。
 ひとつは、単純に「くはい」は同音の「苦敗」と書くのだろうと思って、そう書いてしまったということ。これは単なる書き間違いと言ってもよい。
 もうひとつは、「苦敗」という、にがい敗戦、悔しい負けという語があって、そのような負けをこうむるという意味で、「苦敗をなめる」と言ってしまったということ。もちろん、「苦敗」などという語は辞書には立項されていないのだから、やはり誤用だということもできる。だが、冒頭の新聞の見出しに「苦敗」が使われていることを思い出していただきたい。しかも、「苦敗」の使用例は冒頭の例だけではない。

 「阪神・ロサリオ、7番降格も不発 大拙攻で松坂にまた“苦敗”」(2018年8月2日「サンケースポーツ」)

などという、阪神ファンにはその通りとしか言いようのない例もある。ここでは「苦敗」にクオーテーション・マークを付けているので、辞書に無い語、まだ認知されていない語だということを暗に示しているようだ。
 このような例が複数あるということは、まず「苦敗」を新たに辞書に立項するかどうか検討する必要があるのかもしれない。そして、もし「苦敗」を新語として辞書に載せるのであれば、「苦敗をなめる」はにがい敗戦を経験するという意味になるかもしれないということまで検討すべきなのではないだろうか。この意味での「苦敗」と「なめる」を結びつけても、意味的に不自然さは感じさせないからである。
 さらに細かなことだが、「苦敗」を立項するのなら、「『苦杯』を『苦敗』と書くのは誤り」という注記は、「『苦杯』の意味で『苦敗』と書くのは誤り」とすべきなのではないかと思う。
 将来そんな辞書が出てくるだろうか。

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