第452回
「開いた口が塞がらない」のはどういうとき?

 昨年秋に、『新明解国語辞典』と『明鏡国語辞典』の改訂版が刊行された。いずれも定評のある辞書なので、すでにお手もとに置いて使っているというかたも大勢いらっしゃることだろう。
 現在、私は辞書の編集は大型の『日本国語大辞典(日国)』にしかかかわっていないのだが、やはり小型の国語辞典の動向は気になる。『日国』のような大型の辞書と、『新明解』『明鏡』のような小型の辞書とでは編集の方針がまったく異なるからである。できれば小型の辞書の編集もまたやってみたいという願望もある。
 辞書の新版が刊行されたとき、私の興味はもっぱら、ことばの“揺れ”といわれているものをその辞書がどのように扱っているかということにある。
 そういった点に関する記述は、『新明解』よりも『明鏡』の方が詳しいので、先に新版の『明鏡』第3版をパラパラと見ていたら、「開いた口が塞(ふさ)がらない」という項目でこんな注記を見つけた。
 「素晴らしい活躍に驚く意で使うのは誤り。『×ホームランの連発に開いた口がふさがらない』」
 この注記は、第2版にはなく、今回新たに追加されたものである。確かに、「開いた口が塞がらない」は、あきれ返った状態や、あきれてものも言えないさまをいう語で、相手の行為や何かの情景を見て、そのひどさやどうしようも無いさまに驚きあきれるときに使われることが多い。だから、この注記を新たに加えた意図は、わからないでもない。
 だが、私だったら、ということがあるのでそれをここで書いておきたい。
 『日国』で「開いた口がふさがらぬ」を引いてみると、まず、
 「あきれ返った状態。あきれてものも言えないさま」
 という意味が示されている。これは『明鏡』などにもある意味なので問題ないだろう。ところが、(2)として、もう一つ意味が示されているのだ。
 「うっとりしている状態。我を忘れたさま」
というもので、以下のような用例が引用されている。

 *浄瑠璃・仮名手本忠臣蔵〔1748〕三「師直は明いた口ふさがれもせずうっとりと」

これだけだとわかりにくいので、前後を少し補って説明すると、高師直 (こうのもろなお)が豪華な贈り物の目録を見てうっとりしているといった場面である。この「明いた口ふさがれもせず」は素晴らしい活躍に驚くという意味ではく、心奪われてぼうっとしているということだが、といって、あきれ返るということでもない。これは『明鏡』では×になるのだろうか。
 実は、大型の国語辞典と小型の国語辞典では編集方針が異なると書いたのは、まさにこのことなのである。『日国』は用例主義なので、現在は使われていない意味であっても、用例さえあればその意味を載せることがある。時としてその用例が、現在は“誤用”とされているものであっても。だが、小型の国語辞典は今の用法を記述するものなので、過去の使用例はほとんど無視する。どちらが正しいということではなく、あくまでも方針の違いなのだ。
 ただ、私がもしまた小型の辞書の編集に携わることができて、「開いた口が塞がらない」に注記を施すことになったら、『明鏡』のように「誤り」とは断定しないだろう。「言動などのあまりのひどさに、あきれたり驚いたりするときに使うことが多い」くらいにしておくと思う。

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