日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。

第453回
『新明解国語辞典』と太宰治

 太宰治の作品を読んでいて、ふと『新明解国語辞典』を思い出すことがあった。太宰と『新明解』とは、つながりは何もないのだが。
 それは『チャンス』(1946年)というエッセーのような小品で、自身の恋愛観を太宰らしい諧謔(かいぎゃく)をもって語ったものである。
 その中で太宰は、『辞苑』という辞書の「恋愛」の語釈を引用している。

 「性的衝動に基づく男女間の愛情。即ち、愛する異性と一体にならうとする特殊な性的愛」

 『辞苑』とは現在の『広辞苑』の前身となる辞書で、1935年に博文館から刊行された。編纂者は『広辞苑』と同じ新村出である。『日本国語大辞典』編集部で架蔵している、1943年4月20日発行の353版(!)の『辞苑』を見ると、間違いなく太宰が引用した内容である。だが、『チャンス』が興味深いのは、それにとどまらない。もし自分が『辞苑』の編纂者だったらとして、太宰が自分なりの「恋愛」の語釈を披露している点である。このような内容である。

 「恋愛。好色の念を文化的に新しく言いつくろいしもの。すなわち、性慾衝動に基づく男女間の激情。具体的には、一個または数個の異性と一体になろうとあがく特殊なる性的煩悶。色慾の Warming-up とでも称すべきか。」

 太宰が付け加えた「好色の念を文化的に新しく言いつくろいしもの」や、「男女間の愛情」を「男女間の激情」と、「愛する異性」を「一個または数個の異性」と書き換えているあたりは、いかにも太宰らしいと思う。だが、これを読んで、待てよ、と思ったのである。これと『辞苑』の語釈とを合わせみて、『新明解』第3版(1981年)の次のような語釈を思い出したからである。

 「特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持を持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。」

 『新明解』第3版は、編集主幹山田忠雄による個性的な語釈が話題になったものである。たとえば「恋愛」の語釈も、辞書に「合体」という語が初めて使われていることで知られている。そして、この『新明解』の語釈が、『辞苑』や太宰案と、かなり似た発想の上に成り立っていると思えてならないのである。「愛する異性と一体にならうとする」が「出来るなら合体したい」と、「一体」と「合体」の違いはあるが。ひょっとすると編集主幹だった山田忠雄は、太宰案はともかくとして、『辞苑』の方は参考にしたのではないかと勘ぐりたくなる。
 山田は『新明解』第2版の序文で、「先行書数冊を机上にひろげ、適宜に取捨選択して一書を成すは、いわゆるパッチワークの最たるもの、所詮、芋辞書の域を出ない」と高らかに宣言し、第3版で従来のものとも類書のものとも違う、個性的な語釈を目指した。ちなみに第2版(1974年)の「恋愛」の語釈は、

 「一組の男女が相互に相手にひかれ、ほかの異性をさしおいて最高の存在としてとらえ、毎日会わないではいられなくなること」

というものである。第3版ではこれをまったく異なる内容に改めたのだが、独自性を追求するあまり、逆に先行辞書にかなり似通ってしまったというのは、興味深い出来事である。太宰治が、思いがけないことに気づかせてくれたというわけだ。
 ちなみに、2020年秋に刊行された『新明解』第8版の「恋愛」の語釈は、これらともかなり異なる。それはそれでいろいろ考えさせられるのだが、それは、実際に第8版をお読みいただきたい。

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■日時:2021年4月8日(木)14:00~15:30
■場所:日比谷図書文化館地下1階 日比谷コンベンションホール(大ホール)
■参加費:1000円(税込)
くわしくはこちら→https://japanknowledge.com/event/
申し込みはこちらから→https://www.library.chiyoda.tokyo.jp/information/20210408-post_341/

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