第454回
「あえか」と『吾輩は猫である』

 ことばのなかには、いっとき使われなくなったのに、再び脚光を浴びるようになるものがある。ある意味、人間や芸術作品の評価に似ているのかもしれない。
 たとえば、「あえか」という語がそれである。『源氏物語』など主に平安文学の中で使われ、容姿や気持ちなどが弱々しいさま、かよわくなよなよとしたさまをいい、ふつう若い女性に対して使われた。『日本国語大辞典(日国)』で引用されている『源氏物語』の以下の例もその意味である。

 「はなやかならぬ姿、いとらうたげにあえかなる心ちして」(夕顔)

 おとなしく目立たない姿が、ほんとうに愛らしくきゃしゃな感じで、という意味だが、夕顔という女性に関する描写である。夕顔は光源氏と共に宿ったときに物の怪(け)に襲われて死んでしまうという、はかなげな女性である。
 平安時代には「あえか」は『源氏物語』以外の作品でも盛んに使われたのだが、中世以降になるとすでに古語だと意識されたためか、使用例ががぜん少なくなる。『日国』にもその時代の用例は見当たらない。実際にはほそぼそと使われていたのかもしれないが。
 この語を近代になって再発見した人たちがいる。歌人の与謝野晶子とその仲間である。明治30年代に、本来の意味を少し変えて、自然の景物や夢、希望などのはかなげで美しいさまに対して使い始め、やがてそれが広まっていく。明治34年(1901年)に発表された晶子の第一歌集『みだれ髪』にも、

 「あえかなる白きうすものまなじりの火かげの栄(はえ)の咀(のろ)はしき君」(はたち妻)

という短歌が収録されている。この場合の「あえか」は「うすもの(薄物)」、すなわち薄く織った織物で作った単(ひとえ)を修飾している。白く美しいと。もちろんその単を羽織っているのは、与謝野鉄幹である。「咀はし」は憎らしいといった意味だろう。
 この晶子たち明星派の歌人、詩人が「あえか」を盛んに使うようになった状況を、ちょっと冷めた目で見ていた人物がいた。夏目漱石である。漱石は『吾輩は猫である』の中で次のような面白いやりとりを描いている。『吾輩は猫である』の発表は、やはり明治30年代(38~39年)である。
 苦沙弥(くしゃみ)先生の家に迷亭、水島寒月、越智東風の3人がやってきたときのこと、先生が東風に(詩の)傑作はないかと聞くと、東風は近々詩集を出すつもりだと言って、原稿を披露するのである。東風は「新体詩人」である。その稿本の1ページ目には、「世の人に似ずあえかに見え給う  富子嬢に捧ぐ」と書かれていた。それを見た迷亭は次のように言うのである。

 「『しかし東風君この捧げ方は少しまづかったね。このにと云ふ雅言(がげん)は全体何と言ふ意味だと思ってるかね』『蚊弱(かよわ)いとかと云ふ字だと思ひます』『なるほどさうも取れん事はないが本来の字義を云ふとにと云ふ事だぜ。だから僕ならかうは書かないね』『どう書いたらもっと詩的になりませう』『僕ならかうさ。世の人に似ずあえかに見え給ふ富子嬢のに捧ぐとするね。わずかに三字のゆきさつだががあるのとないのとでは大変感じに相違があるよ』」(六)

 実は「あえか」には迷亭がいうとおり、危なっかしい様子という意味もあり、『日国』でも最初の意味に掲げていて、『源氏物語』の例を引用している。おそらくこれが原義で、それから、かよわく弱々しいさま、きゃしゃではかなげなさまという意味に派生していったのだろう。迷亭は明星派が「あえか」の意味を変化させて再び使い出したことを踏まえて、富子嬢に鼻の下を伸ばしている「新体詩人」の東風君をからかっているのだと思われる。作者の漱石はそれを批判しているのではく、面白がっているようだ。そして、いち早くそれを自作に取り込んでしまうところが漱石の言語感覚の鋭さだと思うし、日本語にかかわる者として実に興味深い。

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