日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。

第465回
「國酒」と「日本酒」

 家の近所で車を運転していたときに、前を走るミニバンの後ろに書かれた文字をよく見たら、「国酒」と書かれていた。それは酒屋さんの車だったので、別に不思議ではないのだが、ふだんほとんど目にすることのない「国酒」という語のことを、久しぶりに思い出した。
 「国酒」とは、ご想像の通り、日本の酒、つまり日本酒、泡盛を含む焼酎などのことをいう。ミニバンには「国酒」と表記されていたが、正式には「国」は旧字体の「國」を使う。2012年(平成24年)に「ENJOY JAPANESE KOKUSHU(國酒を楽しもう)」プロジェクト」として、時の国家戦略担当大臣によって発表されたものである。ただ、「國酒」という語自体は、1980年に急逝した大平正芳元首相が使った語らしい。ふつうの辞書には載っていない語で、『日本国語大辞典(日国)』にも「くにざけ(国酒)」は立項されているが、それは地酒のことで、意味が異なる。
 日本で生まれた酒を「日本酒」とは呼ばずに「國酒」と呼んだのは、すでに「日本酒」が「清酒」だけを意味し、さらに「焼酎」を「日本酒」とはいわないからだろう。「和酒」という選択肢もあったような気がするが、なぜそうならなかったのか、いささか興味がある。「國酒」がダメだということではないが。
 日本で生まれた酒類の呼び名は、考えてみればおもしろい。主なものは「清酒」「焼酎」「泡盛」「どぶろく」があるが、「清酒」だけ、「日本酒」と呼ばれるようになった。
 「清酒」が「日本酒」と呼ばれるようになったのは、ヨーロッパやアメリカから渡来した「洋酒」が日本に入ってきたときに、「清酒」が日本の酒を代表すると考えられたからだろう。『日国』で引用している「日本酒」の最も古い例は、明治時代になってからの坪内逍遙『内地雑居未来之夢』(1886年)の以下のものである。

 「日本酒(ニホンシュ)改良の一事是なり」(三)

この例によって、「洋酒」に対する「日本酒」という語が生まれたわけではないだろうが、「清酒」が「日本酒」となる時期は、この前後と考えて間違いなさそうだ。
 ちなみに「清酒」は、「濁り酒」に対する語で、漉(こ)した酒、すんだ酒という意味である。
 「洋酒」という語も、使われるようになったのは明治時代になってからで、たとえば『日国』には、次のような例が引用されている。

*西洋道中膝栗毛〔1870~76〕〈仮名垣魯文〉八・下「ビイルでも呑べし呑べし とこれより三人うちまとひてさきにととのへをきたる牛肉をさかなに洋酒をのむことありとしるべし」

いかにも文明開化という気分の例だが、ここでは「ビイル」も「洋酒」としていて、これは異論のあるところかもしれない。通常「洋酒」という場合、蒸留してつくるウイスキーやブランデー、あるいはスピリッツ類のようにアルコール分の強い酒をさすことが多いからである。私も、語感としてはそれである。
 いずれにしても、「洋酒」に対して「清酒」を「日本酒」と呼んでしまったために、同じ日本の酒なのに、焼酎類はいささか割を食ってしまったということなのかもしれない。それを救済するために「國酒」という語が作られたのだろうが、残念ながらいまだほとんど認知されていないようだ。
 現時点では、「國酒」を載せる辞書は無いだろうなと、その晩も日本酒を飲みながら考えた。

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