第466回
「爪痕を残す」は、何を残すのか?

 インターネットのYahoo!ニュースを見ていたら、こんな記事を見つけた。
 「舞台を主戦場として活躍してきた玉置だが、近年は映画やドラマでも個性的な役どころを演じ、爪痕を残してきた」(2021年8月22日)
 「玉置」というのは役者さんの名だが、今回話題にしたいのはこの役者さんのことではない。文中にある、「爪痕を残す」という言い方についてである。
 『日本国語大辞典(日国)』では、「爪痕を残す」は立項されていないが、「爪痕」は以下のように説明されている。

(1)物についている爪のかた。
(2)爪でかいた傷のあと。
(3)比喩的に、台風やなだれ、また、大きな事件などが残した無残な被害や影響などをたとえていう。

 「爪痕を残す」は(3)の意味で、『日国』の語釈からもおわかりのように、この比喩的な意味は、マイナスの意味なのである。ほとんどの辞書も同様である。
 ところが、冒頭の記事にもあるように、マイナスの意味ではない用法もけっこう見られる。そのため、このような意味について触れる辞書も、わずかながら出てきた。たとえば、『デジタル大辞泉』は「補説」として、
 「近年、『爪痕を残す』という言い方で、本来の意味とは異なる『成果をあげる』『印象づける』『一矢を報いる』などの意味で用いられることがある」
と述べている。
 また、『明鏡国語辞典』第3版は、「注意」という欄を設け、
 「存在感や好成績を残す意で使うのは、本来は誤り」
としている。ただ『明鏡』ではこの後に、
 「爪痕を残せるように頑張りたい」
という例文を載せ、その頭に、×印を付けている。どうやら、「本来は誤り」なのだから使ってほしくないということのようだ。
 だが私には、「本来は誤り」とする、その根拠はいったい何なのだろうかという疑問がある。確かに、「爪痕を残す」の新しい意味を誤用だと言う人がいることは知っている。ただその人たちも、何か根拠があってそう言っているようには思えないのである。
 わざわざこのようなことをいうのは、芥川龍之介の『続文芸的な、余りに文芸的な』(1927年)に次のような例があるからだ。

 「新らしいものに手をつけさへすれば、兎に角作家にはなれるのである。しかしそれは必しも一爪痕を残すことではない、僕は未だに『死者生者』は『芋粥』などの比ではないと思ってゐる」(一「死者生者」)

原文にはルビがないので正確にはわからないが、この場合の「一爪痕」は「いちそうこん」と読むのだろう。そして、芥川のこの例はまさに印象づけるという意味なのである。「つめあと」と読むか「そうこん」と読むかによって、意味が異なるということはないだろう。
 芥川の例があるから誤用ではないということにはならないだろうが、プラスの意味で使われている例は間違いなく存在するのである。
 私はそれを誤用とはいえないと思うし、この意味は今後辞書に載るようになると思っている。

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