第476回
「痴漢」が性犯罪者になったのはいつ?

 変なタイトルを付けたが、痴漢行為について、法律的な解説をしたいわけではない。
 『日本国語大辞典(日国)』で「痴漢」を引いてみると、以下のような2つの意味がある。

 (1)愚かな男。ばかもの。たわけもの。
 (2)女性にみだらな行為をする男。

 「痴」はおろか、「漢」は男という意味で、「痴漢」という語は、本来は(1)の意味で使われていた。それがのちに(2)のような、女性に淫らな行為を働く男や、そのような行為をいうようになった。その意味がいつ頃から広まったのかという話をしたいのである。
 なぜそのようなことを考えたのかというと、NHK Eテレの番組の某ディレクターさんからこんな話を聞いたからだ。彼は、「痴漢」という語が(2)の意味で使われるようになったのには、作家の大江健三郎がかかわっていると考えて、担当する番組でそう取り上げたというのである。
 確かに大江の『性的人間』(1963年)という小説では、詩を書くために痴漢行為を働こうとする少年が登場するし、実際に「痴漢」という語も使われている。「痴漢」という語がこの小説からある程度広まったことは否定しないが、(2)の意味は大江が生み出したものではないだろう。
 『日国』には、大江の例よりも数年早い、

*セルロイドの塔〔1959〕〈三浦朱門〉八「よく週刊誌に中年の痴漢の話が出ているが」

という例が引用されている。この例から、この頃週刊誌では、「痴漢」という語がけっこう頻繁に使われていたこともわかる。
 ところで、『日国』編集部では「日国友の会」というサイトを開設していて、広く読者から、用例の提供をお願いしている。そこに「痴漢」の例が2例投稿されている。
 一つは、中野重治の『夜と日の暮れ』からのもので、単行本掲載は1955年のようなので、 『セルロイドの塔』よりも少しばかり古い。この『夜と日の暮れ』の例は、間違いなく(2)の意味である。
 ところが、もう一例投稿されたものは、明治のもので少しばかり古い。こんな例だ。

 「まことの色情狂かこんな愚にも付かぬことをして騒がす痴漢は用捨なしに打倒してやるか」

1907年(明治40年)6月12日の『静岡民友新聞』の記事である。
 この例を「日国友の会」の担当者は、『夜と日の暮れ』の成立が1955年だとして、それよりも48年さかのぼるものだとしている。
 だが、私はこの判断に対していささか疑問がある。前後をもう少しよく読む必要がありそうだが、この例は、『日国』の「痴漢」の(1)の意味で使っているのではないかと思えるのだ。文中に「色情狂」とあるが、そのような男を、ばか者と糾弾しているのではないかと。
 そういう目で見ていくと、他にもそのような戦前の例がある。岡本綺堂の『郊外生活の一年』というエッセイがそれだ。この文章が書かれたのは1925年である。

 「わたしの家の女中のひとりが午後十時ごろに外から帰って来る途中、横町の暗いところで例の痴漢に襲われかかったが」

ここでの「痴漢」も一見、女性にみだらな行為をする男のようにも読み取れるが、「例の」と言っているのは、不良仲間の窃盗犯のことなのである。つまりこの例も、そのような者を、愚か者、ばか者といっているように私には思える。
 ただ、『静岡民友新聞』の記事もそうだが、編集部内の見解は分かれそうだ。私はこの2例は、「痴漢」という語にとって、過渡期的な意味で使われていると考えている。そして、新しい(2)の意味が定着するのは、その意味の用例が多く存在する、戦後のことではないかと思うのである。編集会議では、もめるかもしれないが。
 採取した用例の意味の判断は、けっこう難しいのである。

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