第480回
「ことわざ」も時代とともに変化する
2022年05月09日
辞典には、ことわざだけを集めた「ことわざ辞典」と呼ばれるものがある。辞書編集者として私は、この「ことわざ辞典」を担当したことがない。別に避けていたわけではなく、機会がなかっただけである。
それが最近になって、小学生向けのことわざ辞典に目を通す機会がたまたまあった。かつて勤務していた出版社の『例解学習ことわざ辞典』(第二版)という辞典である。第二版は2002年の刊行なので、刊行からすでに20年たっている。
ことわざはある程度形が決まっているものなので、20年前のものでも、あまり変わりはないだろうと思って読み始めた。ところが、現在の感覚からするとどうなのだろうかと思うものがいくつかあった。
たとえば、このコラムの第92回で書いた「蛇ににらまれた蛙」もそうだ。これは、「蛇に見込まれた蛙」が本来の言い方だが、近年は「蛇ににらまれた蛙」と言う人の方が多い。そのようなこともあって、私が担当した小学生向けの国語辞典『例解学習国語辞典』では、「蛇ににらまれた蛙」にしていると、そのコラムで書いた。
『例解学習ことわざ辞典』では、本来の形の「蛇に見込まれた蛙」で立項されている。だが、もはや「蛇ににらまれた蛙」でいいのではないかと思った。
そういう目で見ていくと、他にもある。
「一銭(いっせん)を笑(わら)う者(もの)は一銭(いっせん)に泣(な)く」もそうだろう。本来の形は「一銭」だが、もはや「一円を笑う者は一円に泣く」がふつうだと思う。
ここで、話が少しだけ脱線することをお許しいただきたい。この「一銭を笑う者は一銭に泣く」に関して、『故事俗信ことわざ大辞典』(小学館)におもしろい解説が載っている。
「貯蓄奨励用に公募され、二等に選ばれた標語が定着したもの。ことわざとしては作者が明らかな珍しい例である。大正八年のこの標語は、逓信省為替貯金局の公式の標語として最も古いものという」
というのだ。少し補足をすると、これは大阪の朝田喜代松さんが作った標語で、二等になった標語は別にもう一つある。一等はというと、「貯金は誰も出来るご奉公」というものであった。いかにも時代を感じさせるが、これにくらべて「一銭を笑う者は一銭に泣く」は、「貯蓄奨励」という枠を超えた、秀逸で普遍的な標語だったと思う。これのみ後世に残った理由もうなずける。
よく言われることだが、「早起きは三文の徳」ももはや「三文の得」でいいような気がする。漢語の原義でも、「徳」は「得」に通じると考えられるからである。「徳」とも書くという注記は必要かもしれないが。
「読書百遍義自ずからあらわる」はどうだろう。このことわざには出典があって、中国の歴史書『魏志‐王粛伝』の注に引く「魏略」に拠っている。原文には「読書百徧而義自見」とあり、「読書百徧義自ずから見(あらわ)る」と訓読される。だが、これはふつう「意自ずから通ず」という形で通用しているのではないだろうか。
ことわざ辞典も、見出し語は広く通用している形に変えていいのではないか。本来の形にこだわることも大事だが、ことわざも変わるものだということを、受け入れるべきなのではないかと思う。
それが最近になって、小学生向けのことわざ辞典に目を通す機会がたまたまあった。かつて勤務していた出版社の『例解学習ことわざ辞典』(第二版)という辞典である。第二版は2002年の刊行なので、刊行からすでに20年たっている。
ことわざはある程度形が決まっているものなので、20年前のものでも、あまり変わりはないだろうと思って読み始めた。ところが、現在の感覚からするとどうなのだろうかと思うものがいくつかあった。
たとえば、このコラムの第92回で書いた「蛇ににらまれた蛙」もそうだ。これは、「蛇に見込まれた蛙」が本来の言い方だが、近年は「蛇ににらまれた蛙」と言う人の方が多い。そのようなこともあって、私が担当した小学生向けの国語辞典『例解学習国語辞典』では、「蛇ににらまれた蛙」にしていると、そのコラムで書いた。
『例解学習ことわざ辞典』では、本来の形の「蛇に見込まれた蛙」で立項されている。だが、もはや「蛇ににらまれた蛙」でいいのではないかと思った。
そういう目で見ていくと、他にもある。
「一銭(いっせん)を笑(わら)う者(もの)は一銭(いっせん)に泣(な)く」もそうだろう。本来の形は「一銭」だが、もはや「一円を笑う者は一円に泣く」がふつうだと思う。
ここで、話が少しだけ脱線することをお許しいただきたい。この「一銭を笑う者は一銭に泣く」に関して、『故事俗信ことわざ大辞典』(小学館)におもしろい解説が載っている。
「貯蓄奨励用に公募され、二等に選ばれた標語が定着したもの。ことわざとしては作者が明らかな珍しい例である。大正八年のこの標語は、逓信省為替貯金局の公式の標語として最も古いものという」
というのだ。少し補足をすると、これは大阪の朝田喜代松さんが作った標語で、二等になった標語は別にもう一つある。一等はというと、「貯金は誰も出来るご奉公」というものであった。いかにも時代を感じさせるが、これにくらべて「一銭を笑う者は一銭に泣く」は、「貯蓄奨励」という枠を超えた、秀逸で普遍的な標語だったと思う。これのみ後世に残った理由もうなずける。
よく言われることだが、「早起きは三文の徳」ももはや「三文の得」でいいような気がする。漢語の原義でも、「徳」は「得」に通じると考えられるからである。「徳」とも書くという注記は必要かもしれないが。
「読書百遍義自ずからあらわる」はどうだろう。このことわざには出典があって、中国の歴史書『魏志‐王粛伝』の注に引く「魏略」に拠っている。原文には「読書百徧而義自見」とあり、「読書百徧義自ずから見(あらわ)る」と訓読される。だが、これはふつう「意自ずから通ず」という形で通用しているのではないだろうか。
ことわざ辞典も、見出し語は広く通用している形に変えていいのではないか。本来の形にこだわることも大事だが、ことわざも変わるものだということを、受け入れるべきなのではないかと思う。
キーワード: