第490回
読む人をシーンとさせてしまう話
2022年10月03日
「シーン」は、物音や話し声が聞こえず、あたりが静まりかえっているさまを表す語である。辞書の見出しは「しいん」だが、「シーン」と書かれることが多いかもしれない。ただここでは話の都合上、「しいん」と表記する。
なぜ静まりかえったさまを「しいん」と表現するのか。音がしなくても空気の振動を鼓膜が感じて、そのように聞こえているからだという説があるらしい。だが真偽は別として、「しいん」という語自体は、鼓膜が感じる音を直接表現したものではないだろう。
あたりが静まりかえっているさまを表す語は、古くから、「しいん」の他にも、「しん」「しんしん」「しんかん」などがあるからだ。「しいん」「しん」は漢字で書かれることはないが(「蕭然」「寂然」などに「しん」とふりがなを振った例はある)、「しんしん」は「森々」「深々」、「しんかん」は「深閑」「森閑」と書かれる。いずれも「しん」で共通するので、何らかの関係があるのかもしれない。
『日本国語大辞典』によれば、「しん」と「しいん」では、「しん」の例の方が古い。
*俳諧・毛吹草〔1638〕一「春をしたへる哥や案ずる お座敷は三月しんとしづまりて」
春を慕う歌をあれこれ考えていて、3月の座敷は静まりかえっているという意味だろう。
「しいん」の方は、『日国』を見る限り、大正になってからの例が最も古い。
*末枯〔1917〕〈久保田万太郎〉「四辺(あたり)はシインとして来る」
後発の「しいん」は、「しん」を強調して生まれた語だろう。
「深々」は、『日国』によれば、「奥深く静寂なさま。ひっそりと静まりかえっているさま。森森(しんしん)」とあり、
*平家物語〔13C前〕二・一行阿闍梨之沙汰「冥々として人もなく、行歩(かうほ)に前途まよひ、深々として山ふかし」
の例が最も古い。
ただ『平家物語』のこの例は、解釈が分かれている。『日国』で使用した『平家物語』の底本は、岩波書店の「日本古典文学大系」で、この本文は龍谷大学本によっている。大系本ではこの「深々」の頭注に、「正しくは森々か。樹木が生い茂ること」とある。
龍谷大学本は、南北朝期の代表的な琵琶法師覚一が書き遺した、覚一本と呼ばれる語り本系の伝本である。
覚一本は広く読まれたようで、小学館の『日本古典文学全集』も同じ覚一本系の高野本(東京大学国語研究室蔵)を底本にしている。こちらも「深々として山ふかし」だが、やはり頭注に板本の元和版が「森々」なので、「ここは『森々』か」とある。
つまり、底本のまま「深々」と考え、「奥深く静寂なさま、ひっそりと静まりかえっているさま」の意味だとする『日国』と、「深々」ではなく「森々」が正しく樹木が生い茂っているさまという意味ではないかとする大系や全集と、異なった二つの解釈があるわけだ。
『日国』の用例部分にかかわった者としてひと言述べさせていただくと、『日国』では基本的に誤記説は採らない。底本の表記を尊重するようにしているのだ。従ってこの場合は底本通り「深々」と判断する。
またこれは素人考えながら、『平家物語』のこの例は、真っ暗なので人もなく、行く手もわからぬ道をさまよい歩いて行くということである。だとすると、「森々として山ふかし」で山は樹木が生い茂って深いと解釈するよりも、山はひっそりと静まりかえって深いと解釈した方がよさそうな気がするのだがいかがだろうか。
また、「森々」は、樹木が高く生い茂ったさまをいうが、「深々」と同じように、あたりがひっそりと静まりかえっているさまを表すこともある。『日国』にはその意味の例も3例引用されている。「深々」「森々」は音が同じこともあって、意味が交錯しているのだろう。
そして興味深いのは、「深」「森」という漢字には、元来「しずか」という意味はないことである。やはりひっそりと静まりかえっているさまを表す「森閑」「深閑」という語はあるが、これは「閑」が「しずか」という意味である。
「しん」「しいん」がなぜ「しずか」という意味になったのか、俳諧『毛吹草(けふきぐさ)』ではないが、考えれば考えるほど「しんとしずまり」かえってしまいそうだ。
なぜ静まりかえったさまを「しいん」と表現するのか。音がしなくても空気の振動を鼓膜が感じて、そのように聞こえているからだという説があるらしい。だが真偽は別として、「しいん」という語自体は、鼓膜が感じる音を直接表現したものではないだろう。
あたりが静まりかえっているさまを表す語は、古くから、「しいん」の他にも、「しん」「しんしん」「しんかん」などがあるからだ。「しいん」「しん」は漢字で書かれることはないが(「蕭然」「寂然」などに「しん」とふりがなを振った例はある)、「しんしん」は「森々」「深々」、「しんかん」は「深閑」「森閑」と書かれる。いずれも「しん」で共通するので、何らかの関係があるのかもしれない。
『日本国語大辞典』によれば、「しん」と「しいん」では、「しん」の例の方が古い。
*俳諧・毛吹草〔1638〕一「春をしたへる哥や案ずる お座敷は三月しんとしづまりて」
春を慕う歌をあれこれ考えていて、3月の座敷は静まりかえっているという意味だろう。
「しいん」の方は、『日国』を見る限り、大正になってからの例が最も古い。
*末枯〔1917〕〈久保田万太郎〉「四辺(あたり)はシインとして来る」
後発の「しいん」は、「しん」を強調して生まれた語だろう。
「深々」は、『日国』によれば、「奥深く静寂なさま。ひっそりと静まりかえっているさま。森森(しんしん)」とあり、
*平家物語〔13C前〕二・一行阿闍梨之沙汰「冥々として人もなく、行歩(かうほ)に前途まよひ、深々として山ふかし」
の例が最も古い。
ただ『平家物語』のこの例は、解釈が分かれている。『日国』で使用した『平家物語』の底本は、岩波書店の「日本古典文学大系」で、この本文は龍谷大学本によっている。大系本ではこの「深々」の頭注に、「正しくは森々か。樹木が生い茂ること」とある。
龍谷大学本は、南北朝期の代表的な琵琶法師覚一が書き遺した、覚一本と呼ばれる語り本系の伝本である。
覚一本は広く読まれたようで、小学館の『日本古典文学全集』も同じ覚一本系の高野本(東京大学国語研究室蔵)を底本にしている。こちらも「深々として山ふかし」だが、やはり頭注に板本の元和版が「森々」なので、「ここは『森々』か」とある。
つまり、底本のまま「深々」と考え、「奥深く静寂なさま、ひっそりと静まりかえっているさま」の意味だとする『日国』と、「深々」ではなく「森々」が正しく樹木が生い茂っているさまという意味ではないかとする大系や全集と、異なった二つの解釈があるわけだ。
『日国』の用例部分にかかわった者としてひと言述べさせていただくと、『日国』では基本的に誤記説は採らない。底本の表記を尊重するようにしているのだ。従ってこの場合は底本通り「深々」と判断する。
またこれは素人考えながら、『平家物語』のこの例は、真っ暗なので人もなく、行く手もわからぬ道をさまよい歩いて行くということである。だとすると、「森々として山ふかし」で山は樹木が生い茂って深いと解釈するよりも、山はひっそりと静まりかえって深いと解釈した方がよさそうな気がするのだがいかがだろうか。
また、「森々」は、樹木が高く生い茂ったさまをいうが、「深々」と同じように、あたりがひっそりと静まりかえっているさまを表すこともある。『日国』にはその意味の例も3例引用されている。「深々」「森々」は音が同じこともあって、意味が交錯しているのだろう。
そして興味深いのは、「深」「森」という漢字には、元来「しずか」という意味はないことである。やはりひっそりと静まりかえっているさまを表す「森閑」「深閑」という語はあるが、これは「閑」が「しずか」という意味である。
「しん」「しいん」がなぜ「しずか」という意味になったのか、俳諧『毛吹草(けふきぐさ)』ではないが、考えれば考えるほど「しんとしずまり」かえってしまいそうだ。
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