第491回
「いわし鍋」ってどんな“鍋”?
2022年10月17日
私が編集にかかわっている『日本国語大辞典(日国)』では、インターネットで読者に用例の提供を呼びかけている(「日国友の会」)。あるときそこに投稿された用例に目を通していて、とてもうれしい用例を見つけた。「いわし鍋」という語の用例である。
イワシを使った鍋が好きなのかと思われそうだがそうではない(イワシは好きだが)。「いわし鍋」とは、イワシを煮た臭いは鍋に残ってなかなか消えないところから、縁の絶ちがたい間柄をいう語である。「いわし煮(に)た鍋」とも言うらしい。
「日国友の会」に投稿された例は、曲亭馬琴作『南総里見八犬伝』の次のような例だ。
「和主(わぬし)と己等(おら)は鰯鍋(いはしなべ)、内証の事には蓋をして、移香立ぬ術(すべ)もあらん」(第四輯・第三十四回)
この「いわし鍋」は、どう見ても鍋料理ではない。『八犬伝』の登場人物の関係を述べると長くなるので省略するが、山林房八が八剣士の一人犬田小文吾との関係を述べているところである。縁の絶ちがたい間柄、すなわち腐れ縁であると。
実は「いわし鍋」も「いわし煮た鍋」も、国語辞典では『日国』にしか載っていない。しかも「いわし鍋」の方は、方言項目で、解説は「いわし煮た鍋」に委ねられている。「いわし煮た鍋」は江戸時代の例が4例引用されていて一般語扱いだが、方言欄もある。そこでは以下のように説明されている。
「遠縁の親族。《いわし煮た鍋》盛岡†054 秋田県鹿角郡132 新潟県361 《いわしなべ》茨城県稲敷郡062 北相馬郡195」
数字は方言項目の元になった各地の方言資料の出典番号で、†は近世の資料であることを示している。
『八犬伝』の例がうれしいというのは、「日国友の会」に投稿される用例は、近世以前の例は比較的珍しく、しかもこの例は『八犬伝』のような有名作品の例だからである。そしてこの例により、「いわし鍋」は「いわし煮た鍋」と同じように用例付きの一般語扱いとなり、方言扱いではなくなるのである。このようなことはそう多くない。
ところで、「いわし鍋」「いわし煮た鍋」ともに、その臭いのせいで生まれた語だといえる。そのせいだろうか、平安時代の貴族はイワシを下賤の者が食べるものとして食さなかったようだ。以下は、それに関していささか蛇足である。
鎌倉中期の説話集『古今著聞集』には、平安後期の政治家で音楽家だった藤原師長(もろなが)が、弟子の藤原孝道(たかみち)が言いつけにそむいて参上しなかったときに、麦飯にイワシをおかずに付けて食べさせたという話が載っている。下賤の者が食べるイワシを食べさせて、懲罰として屈辱感を味わわせようということのようだ。もっとも、孝道は空腹だったのでそれをペロリと平らげて、なんの効果もなかったようだが。
時代が下るとイワシの地位は変わってくる。『猿源氏草紙』という室町末期の御伽草子には、こんな話が載っている。和泉式部がイワシを食べているところに夫の藤原保昌(やすまさ)が来たので、和泉式部は恥ずかしく思って、うろたえてイワシを隠したというのだ。保昌から、何を隠したのかと強く問われた和泉式部は、石清水八幡の託宣の歌を用いて、日本で大切に祭られている石清水八幡宮に参らない人はないと思われるように、日本で大切にもてはやされているイワシを食べない人もいないでしょうと答えたのである。これを聞いた保昌は、イワシは肌をあたため、ことに女性の顔色をよくする「薬魚(くすりうお)」だから、召しあがったのをとがめたとは悪かったと言うのである。
室町時代の御伽草子なので創作だろうし、平安中期に生きた和泉式部がイワシを食べたとは思えないが、この時代になるとイワシは「薬魚」だと認識されるようになったのかもしれない。おおいにその地位が上がったわけだ。
二つの説話を読みくらべてみると、時代とともにイワシの地位が変化したことがわかりおもしろい。
●神永さん講師でおくる日比谷ジャパンナレッジ講演会、11/24(木)開催!
「あんぽんたん」「くそくらえ」「極楽とんぼ」「すっとこどっこい」「とちめんぼう」──人をけなす言葉なのに、なんとなく憎めず、どことなく親しみ深い「ののしり語」。文学作品の中でそれらがどのように使われているか具体例を示しながら紹介します。
日比谷カレッジ 第十八回ジャパンナレッジ講演会
「ののしり語から日本語を読み解く~辞書編集者を悩ませる、日本語⑨」
■日時:2022年11月24日(木)19:00~20:30
■場所:日比谷図書文化館地下1階 日比谷コンベンションホール(大ホール)
■参加費:1000円(税込)
くわしくはこちら→https://japanknowledge.com/event/
申し込みはこちらから→https://www.library.chiyoda.tokyo.jp/information/20221124-post_514/
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くわしくはこちら→https://honno.info/kkan/card.html?isbn=9784788718616
イワシを使った鍋が好きなのかと思われそうだがそうではない(イワシは好きだが)。「いわし鍋」とは、イワシを煮た臭いは鍋に残ってなかなか消えないところから、縁の絶ちがたい間柄をいう語である。「いわし煮(に)た鍋」とも言うらしい。
「日国友の会」に投稿された例は、曲亭馬琴作『南総里見八犬伝』の次のような例だ。
「和主(わぬし)と己等(おら)は鰯鍋(いはしなべ)、内証の事には蓋をして、移香立ぬ術(すべ)もあらん」(第四輯・第三十四回)
この「いわし鍋」は、どう見ても鍋料理ではない。『八犬伝』の登場人物の関係を述べると長くなるので省略するが、山林房八が八剣士の一人犬田小文吾との関係を述べているところである。縁の絶ちがたい間柄、すなわち腐れ縁であると。
実は「いわし鍋」も「いわし煮た鍋」も、国語辞典では『日国』にしか載っていない。しかも「いわし鍋」の方は、方言項目で、解説は「いわし煮た鍋」に委ねられている。「いわし煮た鍋」は江戸時代の例が4例引用されていて一般語扱いだが、方言欄もある。そこでは以下のように説明されている。
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ところで、「いわし鍋」「いわし煮た鍋」ともに、その臭いのせいで生まれた語だといえる。そのせいだろうか、平安時代の貴族はイワシを下賤の者が食べるものとして食さなかったようだ。以下は、それに関していささか蛇足である。
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時代が下るとイワシの地位は変わってくる。『猿源氏草紙』という室町末期の御伽草子には、こんな話が載っている。和泉式部がイワシを食べているところに夫の藤原保昌(やすまさ)が来たので、和泉式部は恥ずかしく思って、うろたえてイワシを隠したというのだ。保昌から、何を隠したのかと強く問われた和泉式部は、石清水八幡の託宣の歌を用いて、日本で大切に祭られている石清水八幡宮に参らない人はないと思われるように、日本で大切にもてはやされているイワシを食べない人もいないでしょうと答えたのである。これを聞いた保昌は、イワシは肌をあたため、ことに女性の顔色をよくする「薬魚(くすりうお)」だから、召しあがったのをとがめたとは悪かったと言うのである。
室町時代の御伽草子なので創作だろうし、平安中期に生きた和泉式部がイワシを食べたとは思えないが、この時代になるとイワシは「薬魚」だと認識されるようになったのかもしれない。おおいにその地位が上がったわけだ。
二つの説話を読みくらべてみると、時代とともにイワシの地位が変化したことがわかりおもしろい。
●神永さん講師でおくる日比谷ジャパンナレッジ講演会、11/24(木)開催!
「あんぽんたん」「くそくらえ」「極楽とんぼ」「すっとこどっこい」「とちめんぼう」──人をけなす言葉なのに、なんとなく憎めず、どことなく親しみ深い「ののしり語」。文学作品の中でそれらがどのように使われているか具体例を示しながら紹介します。
日比谷カレッジ 第十八回ジャパンナレッジ講演会
「ののしり語から日本語を読み解く~辞書編集者を悩ませる、日本語⑨」
■日時:2022年11月24日(木)19:00~20:30
■場所:日比谷図書文化館地下1階 日比谷コンベンションホール(大ホール)
■参加費:1000円(税込)
くわしくはこちら→https://japanknowledge.com/event/
申し込みはこちらから→https://www.library.chiyoda.tokyo.jp/information/20221124-post_514/
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