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東大寺(国史大辞典)
奈良市雑司町にある華厳宗の総本山。大華厳寺・金光明四天王護国寺・総国分寺などの別称がある。南都七大寺・十三大寺・十五大寺の一つ。東大寺の寺号は平城京の東方にある大寺を意味し、『正倉院文書』の天平二十年(七四八)五月の「東大寺写経所解案」に初見するが
興福寺(国史大辞典)
奈良市登大路町にある法相宗大本山。南都七大寺の一つ。寺伝では「こうぶくじ」という。縁起によると、天智天皇八年(六六九)藤原鎌足の死去に際し、妻の鏡女王が鎌足の念持仏の釈迦丈六像などを祀る伽藍をその山階(山科)邸に設けたのに始まり(山階寺)、その子不比等によって藤原京の厩坂に移遷(厩坂寺)
社会学(国史大辞典)
人間の社会的行為を最も基本的単位とする社会の構造や変動を、地位・役割、関係、集団・組織、階級・階層、制度、体制などの概念を用いながら、理論的、実証的に分析し、社会を構成する一定の法則性の発見をめざすとともに、諸社会問題の解決に貢献するという応用的領域をも含んだ
歴史学(国史大辞典)
歴史学すなわち学問としての歴史研究は、現代の日本では、本項目の以下の区分のように、国史学・東洋史学・西洋史学の三つの分野に分けられるのが、普通である。このうち国史学は、日本文学の研究が国文学とよばれているのと同様に、自国の歴史を対象とする意味の名称であるが
君が代(国史大辞典)
日本の国歌に準ずるものとされてきた歌。歌詞は「きみがよは ちよにやちよに さざれいしの いわおとなりて こけのむすまで」。歌は『古今和歌集』の読み人知らずの古歌に始まり、『和漢朗詠集』にとられ、その後筑紫流箏曲や隆達の小唄、琵琶歌「蓬莱山」、浄瑠璃、常磐津
関ヶ原古戦場跡(日本歴史地名大系)
慶長五年(一六〇〇)九月一五日に行われた徳川家康の率いる東軍と石田三成の率いる西軍との合戦場跡。決戦は東西約四キロ、南北約二キロ、標高一三〇メートルの関ヶ原台地で展開され、この戦いに勝利したことで家康は事実上天下の支配者となり、慶長八年の征夷大将軍補任によって名目上からも全国統一の権威をもった
OPEC(改訂新版・世界大百科事典)
Organization of Petroleum Exporting Countriesの略称。石油輸出国機構と訳される。1960年9月,イラン,イラク,サウジアラビア,クウェート,ベネズエラの5ヵ国が,イラクのバグダードで開催した会議で結成された。その後カタル(1961),インドネシア,リビア(1962),アブ・ダビー(1967。74年にアラブ首長国連邦(UAE)に
大暑(日本国語大辞典)
(1)はげしい夏の暑さ。夏のきびしい暑さ。酷暑。極暑。烈暑。(2)二十四節気の一つ。太陽の黄経が一二〇度のときをいう。陰暦では六月中旬、新暦では七月二三、四日頃で、気候的にも梅雨明け後の、もっとも暑気のはげしい頃にあたる。《季・夏》
立夏(改訂新版・世界大百科事典)
二十四節気の一つで暦法上では4月節といい,七十二候では〈蛙始めて鳴く〉候に当たる。現在では太陽が視黄経45°にあるときと定義されていて5月5~6日ころになるが,旧暦の日付では3月15日~4月15日の間のどこかになる。その時代には4月を孟夏といい4~6月を夏としていたが
土用(世界大百科事典)
雑節の一つ。年4回各季にあるが,一般には太陽の黄経117°に達した夏の土用を指す。立秋前18日間をいい,初日を土用の入りという。極暑のためその暑さを利用したり,また暑気負けを防ぐ各種の習俗が行われている。利用するほうでは,衣類や書物に風を通して虫干し
大坂城跡(日本歴史地名大系)
日本歴史地名大系/平凡社/[現]東区大阪城。東区の北東の一角にある城跡で、本丸と二ノ丸のほぼ全域七三万平方メートルが国の特別史跡。城跡にもと玉造定番屋敷・同与力同心屋敷の一部を加えた約一〇三万平方メートルが大阪城公園となっている。
リオ・デ・ジャネイロ(リオ)(改訂新版・世界大百科事典)
ブラジル南東部のリオ・デ・ジャネイロ州の州都で,大西洋に臨むブラジル第2の都市。単に〈リオ〉と呼ばれることも多い。1763年から1960年まで首都の地位にあった。人口614万(2005)。年平均気温22~24℃(最高36.7℃,最低14.9℃)。年間降水量1500~2500mm。平均湿度77%。
徳川秀忠(国史大辞典)
江戸幕府第二代将軍。一六〇五―二三在職。法号台徳院殿。徳川家康の三男。母は家康の側室西郷氏於愛の方(宝台院)。天正七年(一五七九)四月七日遠江浜松城に生まれた。童名長松君、のちに竹千代と改めた。長兄信康が自害、次兄秀康が羽柴(豊臣)秀吉の養子になったため
細川ガラシャ(国史大辞典)
安土桃山時代の代表的なキリシタン女性。細川忠興夫人。永禄六年(一五六三)明智光秀の次女として生まれる。本名玉子、ガラシャGraciaは霊名。諡は秀林院。天正六年(一五七八)織田信長の媒酌により細川藤孝の息忠興と結婚し、細川氏の居城山城勝竜寺城(京都府長岡京市)に輿入れ
オリンピック(世界大百科事典)
オリンピック競技大会Olympic Gamesの略称。日本では〈五輪〉とも表記する。国際オリンピック委員会International Olympic Committee(略称IOC)が主催する国際総合スポーツ大会。各国(地域を含む)のオリンピック委員
真田十勇士(日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
安土桃山時代の武将真田幸村につかえて、武勇をあらわしたという一〇人の勇士の総称。猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三いさ入道、穴山小介、海野うんの六郎、筧かけい十蔵、根津甚八、望月六郎、由利鎌之助の一〇人だが、三好清海入道と伊三入道は兄弟とされている
猿飛佐助(新版 日本架空伝承人名事典)
甲賀流忍術の名人とされる伝説上の人物。玉田玉秀斎による創作講談『忍術名人猿飛佐助』の主人公であるが、一九一一年に刊行された「立川文庫」により大衆のあいだに定着した。戸沢白雲斎に忍術をならい、真田幸村につかえ、いわゆる真田十勇士の一人として活躍するが
福島正則(国史大辞典)
安土桃山・江戸時代前期の武将。安芸国広島藩主。尾張の住人福島市兵衛正信の長男。母は豊臣秀吉の伯母木下氏と伝えられている。永禄四年(一五六一)尾張海東郡二寺邑(愛知県海部郡美和町)に生まれる。幼時より秀吉に仕え、市松と称した。はじめ知行二百石を領し、天正六年(一五七八)
酒井忠次(国史大辞典)
戦国・安土桃山時代の武将。大永七年(一五二七)三河国に生まれる。小平次・小五郎と称す。左衛門尉酒井家の系譜では、忠次は第二代とされており、徳川宗家との姻戚関係に加えて、譜代大名の中では最古参の譜代の一人であった。忠次の妻は碓井姫といい
石川数正(国史大辞典)
安土桃山時代の大名。与七郎、伯耆守、出雲守、のちに康正、吉輝。箇三寺と号す。右近大夫康正の子。天文十八年(一五四九)松平元康(家康)が岡崎から駿府へ人質として送られたとき随行。桶狭間の戦を経て永禄四年(一五六一)二月石ヶ瀬合戦で先懸けとなる。この戦いの直後から
吉野太夫(国史大辞典)
江戸時代初期の京都の代表的な遊女。文化九年(一八一二)の序文のある『吉野伝』には、天正から寛文・延宝ごろまでに、吉野を名乗った遊女が十人あったと記している。しかし二代目以外はほとんどその実体がよくわからない。二代目の吉野太夫は、『色道大鏡』の
豊臣秀長(改訂新版・世界大百科事典)
安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の異父弟。筑阿弥の子。小一郎,のち美濃守。初め長秀,1585年(天正13)ころより秀長に改めた。1577年以降秀吉の中国征伐に従って頭角をあらわし,但馬竹田・出石城主などとして但馬・播磨経略に努めた。本能寺の変後も秀吉の片腕として山崎の戦
豊臣秀次(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。孫七郎。中納言、内大臣、関白、左大臣。号高厳寺(瑞泉院・善正寺)。永禄十一年(一五六八)生まれる。父は豊臣秀吉の近臣三好吉房、母は秀吉の実姉日秀で秀吉の甥にあたる。天正十二年(一五八四)の小牧・長久手の戦には八千人を率いて出陣したが、有力家臣を失い
直江兼続(国史大辞典)
安土桃山・江戸時代前期の大名上杉家の宰相。永禄三年(一五六〇)越後国魚沼郡上田荘坂戸城で生まれる。樋口総右衛門の嫡男。幼名与六、元服して兼続、のち重光と改む。上杉景勝の近習となり、天正九年(一五八一)与板城主直江家を嗣ぎ、山城守を称し、戦国大名上杉氏の家宰の地位にあって
豊臣秀吉(国史大辞典・世界大百科事典)
一五三七-九八安土桃山時代の武将。天文六年(一五三七)生まれる。『太閤素生記』によれば尾張国愛知郡中村(名古屋市)の木下弥右衛門の子という。弥右衛門は織田信秀の足軽であったが負傷して村に帰り百姓となった。秀吉の母なか(大政所、天瑞院)は弥右衛門との間
千利休(国史大辞典・世界大百科事典)
室町時代末期・安土桃山時代に出た茶の湯の大成者。抛筌斎利休宗易居士。堺の納屋衆の一人千与兵衛の子として大永二年(一五二二)に生まれ与四郎と称し、天文四年(一五三五)十四歳の時にはすでに千家の当主となっていた。彼は当時堺の町衆の間に流行していた茶の湯に興味を抱き
大坂の陣(国史大辞典・世界大百科事典・日本国語大辞典)
関ヶ原の戦の戦勝により、政治の主導権を獲得し、かつ戦勝者として大名の支配を可能にした徳川氏にとっては、中央政権を樹立し、その支配権を正当化し確立することが今後の課題となった。そのため戦後一門・譜代大名の創出とその要衝配置、ならびに豊臣秀吉恩顧の大名をはじめとする外様大名
本多忠勝(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた武将。江戸時代前期の有力譜代大名。幼名は鍋之助。通称平八郎。中務大輔。天文十七年(一五四八)三河国に生まれる。父は岡崎城主松平広忠の家臣本多平八郎忠高、母は植村新六郎氏義の娘。父忠高が天文十八年安城の城攻めで討死したため
淀殿(淀・茶々)(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
豊臣秀吉の側室、秀頼の母。父は近江浅井郡小谷城主浅井長政。母は織田信長の妹お市の方。長女として小谷城で生まれた。幼名はお茶々。正確な生年月日は不明であるが、『翁草』によって生年を永禄十年(一五六七)とする説がある。天正元年(一五七三)信長に包囲された小谷城から母に伴われて
高台院(北政所・寧々)(国史大辞典)
豊臣秀吉の夫人。北政所といわれた。天文十八年(一五四九)生まれる。尾張の杉原助左衛門定利の次女で、幼名はねね(禰々)。のち一時吉子と称したこともあるが、『(備中足守)木下家譜』その他の文書には寧子とある。叔母の嫁ぎ先である尾張津島の浅野又右衛門尉長勝に養われ
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