日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。


 今回は類語の話である。
 「了解」「了承」「承知」という3語は、相手の言う意味を理解するという意味で使われるが、それぞれの違いをお考えになったことはあるだろうか。このような意味の似ていることばは、例文を考えてその中でそのことばが使えるかどうかを考えると違いがわかりやすく、かつて私が担当した『現代国語例解辞典』や『使い方のわかる類語例解辞典』という辞典でも、それを特長の一つにしたことがある。
 たとえば、
 「その話なら〇〇しています」
という文を考え、それに今回の3語を当てはめてみて、使えるかどうか考察するというわけである。この例文の場合は、3語とも使えるということに異論のある方はおそらくいらっしゃらないであろう。ただ、それぞれの文章を比べてみると、ニュアンスには違いがありそうである。「了解」は相手の話を理解したうえでそれを認める、「了承」はそれを受け入れる、「承知」はただ知っているという違いがあると言えるかもしれない。
 また、3語とも意味がわかるということでは共通しているのだが、単にわかるというときには、「了解」しか使えないこともありそうである。
 たとえば、
 「ここに書かれている意味が〇〇できない」
といった場合である。
 ただ、最近は3語の違いはかなり曖昧になっていて、相手に何かを受け入れてもらいたいと頼む場合も、ニュアンスの違いはあるものの3語とも使われるケースが多くなっている気がする。
 たとえば、
 「少し遅れますので御〇〇ください」
という場合、従来はもっぱら「了承」「承知」を使って、「了解」を使うことはあまりなかったような気がするのだが、最近では「了解」を使うこともあるのではないだろうか。これは「了解」の意味が広がっているということなのかもしれない。上記の2つの辞典では類語のグループを作って、これらの語が例文によって使えるか否かを示した表組みを掲載しているのだが、この「了解」のように意味が広がっている語もあり、改訂の度に見直しが必要だと感じている。
 なお「了解」の意味が拡大していると書いたが、「了解」を使う場合、敬語のマナーの問題もありそうである。相手から何か頼まれたときに、「了解しました」と言うことがあるが、「了解」は軽い感じがするので、ビジネスの場など改まった場面や目上の人に対しては、「承知しました」などと言うべきだとされている。

 このような類語の意味やニュアンスの違いは普通の国語辞典からは読み取れないことが多く、そのためのものとして類語辞典がある。英語圏では類語辞典はシソーラスと呼ばれ子ども向けのものまでかなり充実しているのだが、日本では認知度がまだ低く、かつ通常の国語辞典ほどは売れないため発行点数もあまり多くはない。類語を使いこなせれば、活(い)き活(い)きとした文章を書くことができると思われるので、とても残念なことである。

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 「暮れのかきいれどき」というときの「かきいれどき」の表記だが、どう書くかわからなくても、パソコンのワープロソフトを使えば、正しく「書き入れ時」と変換してくれるだろう。だが、もしそのソフトがなかったら、「書き入れ時」という表記をすぐに思い浮かべることができるだろうか。ひょっとすると、間違って「掻き入れ時」などと書いてしまうかもしれない。
 そもそもなぜ「書き入れ時」と書くのが正しいのかご存じだろうか。「書き入れ時」と書くのは、商店などで売れ行きがいいため帳簿の書き入れに忙しい時だということから生まれた語だからである。
 これをつい「掻き入れ時」と書きたくなってしまうのは、「かきいれ」を、もうけをかき集めるという意味だと解釈したからだと思われる。気持ちはわからないでもないが、語の成り立ちを考えれば間違った解釈である。
 「かきいれどき」は主に表記のことが問題になる語なので、正しい表記さえわかればそれで話が終わってしまうのだが、それでは曲がないので、さらに少しだけこの語に関しての薀蓄(うんちく)をご披露しようと思う。
 「書き入れ時」は現在では意味が広がって、もうかるときだけでなく、商売に忙しいときや、仕事が集中するときの意味でも使われる。だか、本来の意味は、現代語の意味とは若干異なり、利益が最も期待されるときというものだったのである。つまり、期待とか目当てとかいった意味合いが強かったわけである。ただ現在の辞典では、そういった意味は『日本国語大辞典』(日国)のような、古語と現代語を網羅した辞典は別として触れていない。
 たとえば、『日国』では「書き入れ」にこんな用例が引用されている。

*雑俳・柳多留拾遺(1801)巻七「旅迎へこれ書入れの一つなり」

 「旅迎へ(え)」は旅から帰ってくる人を途中まで迎えに行くことをいう。これは決して親切心からそのようにしていたわけではない。「旅迎え」に行く場所はというと、江戸に入る最後の宿場となる品川、板橋、千住などであったが、ここには飯盛女と呼ばれる遊女がいたのである。「書入れ」は「期待」「当て」と同義である。
 また、「書き入れ時」ではなく「書き入れ日」ということばもあった。

*東京年中行事(1911)〈若月紫蘭〉七月暦「入口の茶屋や花屋は流石に一年中の書入日とて、お墓参りの客を迎ふる準備をさをさ怠りなく」

 お盆の時期のもうけを期待して、墓地の入り口に店を構えた茶屋や花屋が客を迎える準備を怠りなくしているというのである。
 「書き入れ時」も「書き入れ日」も、目当てにしたり期待をしたりする時期というのが本来の意味であったが、これが利益が期待できる時期という意味になり、さらには利益が上がる時期、忙しい時期と意味が変化していったものと考えられる。

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 夜寝るときに着る物をなんと言っているだろうか。大方はパジャマ、ネグリジェかもしれない。だがそのことではなく「ねまき」の話である。
 パジャマに押されて「ねまき」はやや古めかしい感じのことばになってしまったが、これを漢字で書くときは何と書いているだろうか。調査をしたわけではないが、「寝間着」のほうが多いのではないか。ワープロソフトでも最初に変換されるのはほとんどが「寝間着」である。新聞などでも「寝間着」と表記するようにしている。
 だか、この表記は当て字で、「寝巻」が本来の表記だったと思われる。室町時代の国語辞書『運歩色葉集(うんぽいろはしゅう)』にも「寐巻 ネマキ」とある。「寐(び)」は、ねる、ねむるの意である。
 「ねまき」の語源はよくわからないのだが、江戸時代の国語辞書『俚言集覧(りげんしゅうらん)』に「寝纏の義」とあるように、寝るときに体に巻きつける衣類という意味があったのかもしれない。
 「寝間着」のほうは比較的新しい表記で、おそらく「寝間(=寝室)」で着用する衣類という意識で生まれたものであろう。古い用例はあまり見られずほとんどが明治以降のものである。
 たとえば、樋口一葉の『にごりえ』(1895年)の中にも、「これは此子の寝間着の袷(あわせ)、はらがけと三尺(さんじゃく)だけ貰って行まする」とある。「袷」は裏地のついている衣服のことで、貧しさゆえ就寝時に着る物はこれしかなかったのかもしれない。
 「寝巻」と「寝間着」の使い分けは厳密にはないと思われるが、「寝巻」は一般に浴衣(ゆかた)の形式の和服のものをいい、「寝間着」のほうはもっと広く室内着のようなものも含めて呼んでいるかもしれない。
 さらに表記に関して細かなことを言えば、「寝巻」だと語の構成は「ネ・マキ」だが、「寝間着」では、「ネマ・キ」になってしまう。また、「寝間着」の読みは「ネマギ」になる方が自然かもしれない。
 ただしそのようなことは重箱の隅をようじでほじくるようなことで、「寝間着」はよくできた当て字だと思う。

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 お礼の手紙やメールを書くとき、「ありがとう」のあとを「ございます」とするべきか、「ございました」とするべきか悩んだことはないだろうか。
 これがたとえば何かの会のときにする挨拶なら、あまり悩むことはないかもしれない。開始の際には「本日はご来場くださいましてありがとうございます」と言うであろうし、お開きのときには、「おいでくださり、ありがとうございました」と言うであろう。
 「ありがとう」は、存在がまれである、めったにないという意味の形容詞「ありがたい」から生まれた語で、これが、うれしく思うなど、相手に対する感謝の気持ちを表す挨拶のことばになったものである。このような意味の「ありがとう」が広く使われるようになったのは江戸時代からで、それまでは「かたじけない」が使われていた。ただし、上方では「ありがとう」はあまり使われなかったらしい。
 ところで、『日本国語大辞典』で引用されている全用例で「ありがとう」を検索してみると、あとに続くのは「候」「ござる」「ござり(い)ます」「存じます」「さん」などで、「ございました」と続く例は一例も見当たらない。だとすると、「ありがとうございました」はけっこう新しい言い方だということが考えられる。
 では、なぜ「ありがとうございました」が生まれたのか。「ありがとうございました」には、「ありがたい」というもとになった形容詞本来の意味が残存していると考えられる。つまり、挨拶語としてではなく、めったにないということを述べているというわけである。たとえば「うれしい」が「うれしゅうございます」とも、「うれしゅうございました」とも言えるのと同じである。
 この「ありがとうございました」が次第に挨拶語に変わったと考えるべきであろう。
 今となっては使い分けはあまり厳しく考える必要はないであろうが、あえて言うなら、現在の事柄については「ありがとうございます」を、過去の事柄や間もなく終わることが確実な事柄については「ありがとうございました」と使うのが妥当だと思われる。
 なお、ことば遣いに厳しかったという落語家の十代目桂文治師匠(1924~2004年)が、この「ありがとうございました」についてたいへん興味深い発言をしているので、簡単に触れておきたい。文治師匠は以下のように述べているのである。

 「商人は『(ありがとう=筆者補)ございます』。『ました』じゃ、『もう、この後はご贔屓にして戴かなくても結構で』って言ってるようなもんですから……。縁切りですよ。」(桂文治著/太田博編『十代文治 噺家のかたち』2001年うなぎ書房刊)

 私は商人ではないが、これを読んでからはなるべく「ありがとうございます」と言うように心掛けている。

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 NHK-BSの歌番組を見ていたときのことである。歌手のクリス・ハートさんが、自分が日本に来たきっかけになった歌だと言って、ドリームズ・カム・トゥルーの「未来予想図Ⅱ」を歌っていた。そのとき画面の下に歌詞が表示されたので目で追っていたら、「おもったとうりに」というところがあったためとても驚いた。
 もちろん「おもったとうり」という場合の「とうり」は、「とおり」が正しい。われわれがふだん使っている現代語の仮名遣いは、1986(昭和61)年に内閣告示された「現代仮名遣い」をよりどころにしている。そこには、「次のような語は、オ列の仮名に『お』を添えて書く」として、「いきどおる(憤) おおう(覆) こおる(凍) しおおせる」などの動詞とともに、「とおる(通)」も挙げられているからである。
 「現代仮名遣い」ではその理由として、「これらは、歴史的仮名遣いでオ列の仮名に「ほ」又は「を」が続くものであって、オ列の長音として発音されるか、オ・オ、コ・オのように発音されるかにかかわらず、オ列の仮名に「お」を添えて書くものである。」と注記している。この手の文書はなんてわかりにくいのかといつも思うのだが、要するに、たとえば「とおる」の歴史的仮名遣いは「とほる」で、これはオ列の長音として発音されるから「とおる」とするというわけである。
 だが、このことを知らないはずのないNHKが、なぜ字幕では「とうり」としたのだろうか。考えられるのは、ドリカムの歌詞が「とうり」なのでそれを尊重したか、字幕を作成したNHKの担当者が「とうり」が正しいと思っていたかのどちらかであろう。

 なぜこのようなささいなことにこだわるのかというと、かねがねNHKのニュース番組などの字幕に違和感を持っていたからである。
 たとえば、街頭でインタビューを受けた人が「来れる」「着れる」「食べれる」など、いわゆるら抜きことばを使っているにもかかわらず、字幕のほうは「来られる」「着られる」「食べられる」と本来の言い方に逐一直しているところである。
 NHKは、このら抜きことばに関しては、「一段活用やカ変の動詞からでた『見れる』『出れる』『来れる』のような言い方は適当とは言えない、という態度を取っている」(NHK『ことばのハンドブック 第2版』)としている。そしてそれを認めない理由として、「人によっては『ら抜け』表現をまったく用いないばかりか、強い抵抗感さえ抱いているからである」と述べている。
 私もNHKの言う「『ら抜け』表現」を使わない一人だが、その理由は別に使うことに抵抗感があるからというわけではない。子どもの頃から使っていた言い方のほうが話しやすいからという、ただそれだけの理由である。
 文化庁の「国語に関する世論調査」でも、「来れる」のようなら抜きことばはことばの変化だと思っている人が増えつつあるという結果が出ており、2008(平成20)年度調査でも、41%の人がそのように答えている。だが、実態はさらに増えているのではないか。
 NHKがあえて「とうり」というドリカムの歌詞を尊重したというのなら、なぜ一般人のことばの使い方にはそれができないのであろうかという疑問がわいてくる。NHK内部のアナウンサーや記者が「『ら抜け』表現」を使わないという方針は、NHKが今まで担ってきた放送とことばという面から考えればわからないでもない。だが、一般の視聴者が語ったものにまでそれを適応して、わざわざ字幕で直してみせるというのはいかがなものかと思うのである。

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