歌を歌うことは嫌いではないので、たまにカラオケに行くこともある。ただ、今はコロナ禍でカラオケ店も営業を自粛していて、ずいぶん行っていないのだが。
 カラオケで歌う歌は二人で歌うデュエット曲もあるが、ふつうはマイクを持った一人が歌うのだから、あえて言うならそれは「独唱」だろう。最後にみんなで歌える歌を歌ってお開きにしましょうと言って、参加者全員で歌うこともあるが、それはやはり「合唱」になるだろう。なぜそのようなことをわざわざ確認したのかというと、次のような文章を見つけたからだ。

 「臨時カラオケ大会はいくみによる国歌斉唱からスタートした。絶対に負けられない戦いの前には、まず国歌だと言って聞かなかったのだ。なぜか全員起立して胸に手を当て、いくみの国歌を聴かされる。」

 川岸殴魚(かわぎしおうぎょ)のライトノベル『人生』(2012年)の一節である。この中の「国歌斉唱」は何人で歌っているのだろうかと、ふと思ったのである。というのも、「斉唱」は『日本国語大辞典(日国)』によれば、「声をそろえて歌うこと。特に現代では多人数の歌い手が同じ旋律を同じ高さ、またはオクターブ高低させた声で歌うこと。和声をもたない点で合唱と区別される。ユニゾン。」とあるからだ。つまり、「斉唱」は大勢で歌うことであり、決して一人で歌うことではない。これは、他の国語辞典の説明も同様だろうし、音楽用語辞典のような専門の辞典でも変わらないと思う。
 だとすると、引用した文では国歌を歌っているのは「いくみ」一人で、他のメンバーはそれを聴いているだけなので、辞書的な意味とは違うことになる。
 この『人生』という小説の「斉唱」の使い方が誤用だと言いたいわけではない。ただ、「斉唱」をこのような意味、つまり一人で歌うときにも使うことがわずかながら増えているように感じられて、興味深いと思ったのである。
 「斉唱」の「斉」は、ひとしくするということで、同じにする、そろえる、あわせるという意味である。だから、「斉唱」は声をそろえて歌うという意味になるのだが、なぜ一人で歌っても(つまり「独唱」)でも「斉唱」と言ってしまうのだろうか。
 勝手な想像だが、スポーツなどのイベントで国歌を歌うことがあるが、その際に有名な歌手などが登場して「独唱」することがある。だが式次第やアナウンスなどでは、それを「国歌斉唱」と表現していることが多い。おそらく、主催者側は、歌手に合わせて観客全員で「斉唱」してもらいたいと意図しているに違いない。だが、実際には歌手が代表して歌っているように思われて、斉唱=代表者が一人で歌うという意味に捉えられてしまったのではなかろうか。だとすると、引用した小説で「斉唱」を使った作者の意図も説明できそうである。
 もし一般語としての「斉唱」にも「独唱」に近い意味が広がっているとしたら、国語辞典としても何らかの対応をしなければならなくなる。しかもそれは専門用語としては間違いなのだから、それをどう考えるかということにもなってしまう。扱いに悩みそうな語である。

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 メディアもインターネットも、新型コロナウィルス関連の情報であふれかえっている。だが、それらの中には不確かな情報もかなり紛れ込んでいるようで、「デマ」、「ガセ」だから鵜呑みにしないようにと、注意を呼びかけているものもしばしば見受けられる。そうなると、いったい何を信じていいのかわからなくなってくる。現代のようにさまざまな情報が飛び交うというのも、善し悪しなのかもしれない。
 ところで、この「デマ」と「ガセ」だが、今は同じような意味で使われているものの、本来はまったく違う意味だったということをご存じだろうか。2語を合わせると「でまかせ」という語に似ているが、「でまかせ」は「出・任せ」で、その場で口から出るにまかせてしゃべるでたらめのことをいい、まったく関係がない。
 「デマ」はドイツ語の「デマゴギー Demagogie」の略で、元来は「政治的な目的で相手を誹謗(ひぼう)し、相手に不利な世論を作り出すように流す虚偽の情報。また、社会情勢が不安な時などに発生して、人心を惑わすような憶測や事実誤認による情報。」(『日本国語大辞典(日国)』)という意味である。つまり、望ましくない政治手法として、本来は非難の意味を込めて用いられた語なのである。これが、一般に広まって、単なる悪口や根拠のないうわさ話の意味で使われるようになったというわけだ。
 一方の「がせ」は『日国』によれば、「にせもの、まやかしものをいう、てきや・盗人仲間の隠語」である。つまりこちらは「ガセ」と書かれることも多いが、日本語なのである。ただ、なぜ「がせ」というのかはよくわかっていない。「騒がせる」「お騒がせ」の「がせ」からだという説もあるようだが、「がせ」には「偽造通貨、偽画、偽書などの偽造品。また、それらを使う詐欺をいう」(『日国』)という意味があり、偽造品は決して「騒がせて」はいけないものだろうからこの説はかなり怪しい。
 いずれにしても、「デマ」と「ガセ」はまったく別の語だったのである。だが、最近はほとんど同じ意味で使われているわけで、もちろんそれはそれでなんら問題はない。ただ、せっかくの機会なので、本来の意味の違いを知っていても損はない気がする。
 なお、最近は同じ意味で「フェイク」「フェイクニュース」などと言う人もいる。もちろんそれもなんら問題はないことだが、年配者には(私も含めて)、「フェイク」よりも「デマ」「ガセ」の方が意味が通じやすい気がする。従って、その世代に向けて、むやみに信じてはいけない情報だということを伝えたいのであれば、「デマ」「ガセ」の方が理解されやすいということを申し添えておきたい。

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 今回のコラムのタイトルにした『牛肉と馬鈴薯』は、言うまでもなく国木田独歩(くにきだどっぽ)作の小説のことである。これを皆さんは、「牛肉」はいいとして、「馬鈴薯」を何と読んだだろうか。「バレイショ」?「ジャガイモ」?
 正解は『牛肉とジャガイモ』である。えーッ!と思ったかたもいるかもしれない。かくいう私も、長い間『牛肉とバレイショ』と読んでいたことをここで告白しておく。「ジャガイモ」が正解だと知ったのは、『日本国語大辞典(日国)』の編集をしていたときのことだから、けっこういい年になってからである。『日国』のために用例を採用したすべての文献の読み方を調べていて、「ジャガイモ」だと知りかなりな衝撃を受けた。勝手な語感でジャガイモには申し訳ないのだが、バレイショの方が高尚なイメージで、作品にふさわしいと感じていたからである。『牛肉と馬鈴薯』は、独歩の哲学や、人生観をテーマにした小説で、東京の芝区桜田本郷町の明治倶楽部(くらぶ)に集まった仲間が、現実主義的な考えを牛肉に、理想主義的な考えを馬鈴薯にたとえて議論するという内容である。
 ただ言い訳めくが、タイトルからは「馬鈴薯」を何と読むかはわからない。この小説は1901年11月に雑誌『小天地』に発表され、05年刊行の『独歩集』(近事画報社)に収録された。『独歩集』は総ルビで、小説の中には「馬鈴薯(じゃがいも)」と振り仮名がついている。だから、「ジャガイモ」なのである。現在この本は、国立国会図書館デジタルコレクションで確認できる。
 「じゃがいも」というのは、一六世紀末にジャガタラ(ジャカルタの古名)から長崎にもたらされたところからの名で、「ジャガタラ芋」の略である。「馬鈴薯」の方は、駅馬の鈴のように実がなるところからかという、『広辞苑』の編者で知られる新村出(しんむらいずる)の説がある。
 ところで、『独歩集』所収の『牛肉と馬鈴薯』には、「馬鈴薯」に何か所か「いも」という振り仮名も付けられている。私だけがそう感じるのかもしれないが、これはちょっと興味深い。というのも、私にとって「いも」とは、サツマイモのことだからである。独歩は私と同じ千葉県(銚子)の生まれで、5歳のときに山口に移住している。その後、中学を中退して上京し、再び山口に戻ったこともあったようだが、大半は東京で暮らしている。だとすると、独歩はジャガイモをイモと呼ぶ地域には居住していなかったはずなのだ。
 何を根拠にそのようなことを言っているのかというと、かつて私が編集を担当した『お国ことばを知る 方言の地図帳』(佐藤亮一編)という本に、「イモの意味」と名付けた地図があるからで、この地図によると、イモということばで連想する芋の種類が、地域によって異なることがわかる。北海道、東北、長野などでは、イモはジャガイモのことであり、独歩にかかわりのある千葉や山口では、サツマイモのことなのである。ただ、東京も含めて関東はどちらかというとサツマイモよりもサトイモの方が多い。
 『独歩集』のルビは、解明する手立てはないものの、独歩本人が必ずしもかかわっていないのではないかというのが私の想像である。だが、だからといって、『牛肉と馬鈴薯』の「馬鈴薯」が「じゃがいも」であることは揺るぎないのだろうが。
 なお、以下は蛇足である。『お国ことばを知る 方言の地図帳』は、ジャパンナレッジのJKパーソナル+Rの契約で読むことができる。また、講談社の学術文庫にもなっている(『方言の地図帳』2019年)。

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 いささか気が早いのだが、期待をこめて書いておこうと思う。「シュウソク」という語についてである。もちろん、新型コロナウィルス感染症のことに他ならない。 「シュウソク」は、同音語の「収束」と「終息」とがあり、同義語ではないが意味はかなり近い。そのためだろう、執筆者や発言者によって、どちらを使うのかいささか混乱があるように見受けられる。文字で書かれたものは見ればわかるのだが、口頭で述べられたものだと、どちらなのだろうかと思うこともある。どちらも、感染症がおさまるという意味で使われているのだから、どちらを使っても問題はなさそうだが、辞書編集者としてはやはり気になるところだ。
 例えば、国会の本会議、委員会での発言を、速記者はどうしているのだろうかと思ったのである。そこで国会会議録検索システムを調べてみると、こんなことがわかった。新型コロナに関しては3月になってからだと、「収束」は26回、「終息」は67回使われている(4月7日現在の数字)。具体的に見てみると、第201回国会-衆議院-経済産業委員会-第3号-令和2年3月18日では以下のようになっている。

 「まずは感染の拡大を防止し、その流行を早期に収束させることこそが、まずは経済の観点からも最大の課題だと考えております」

とある一方で、その直後の別の人の発言では、

「まずは感染拡大の終息を目指していくということがまず第一でありますけれども」、

と書かれている。予想通り、「収束」「終息」が混在しているのだ。発言者は「シューソク」と言ったので、速記者が自分で漢字に変換して書いただろう。わずかな間に異なった語になったのは、速記者は5分ごとに交替していると同システムのサイトで説明しているので、ひょっとすると速記者が交替したのかもしれない。ただ、二番目の発言は、発言者の意図はわからないが、「収束」の方がふさわしいような気もする。
 もちろん私は、どちらかを使うべきだといいたいわけではない。ましてや揚げ足を取ろうなどと思っているわけでもない。ただ、辞書的にこの2語がどう違うのか説明しておきたいと思っただけである。
 「収束」は、文字通り集めてたばねるということで、これが、ばらばらになっていたり混乱していたりしたものが一つにまとまって収まりがつくという意味になる。
 例えば『日本国語大辞典(「日国」)』で引用している「収束」の例、夏目漱石の『道草』(1915年)は、「云ふ事は散漫であった。〈略〉収束(シウソク)する所なく共に動いてゐた健三は仕舞に飽きた」(九六)というものである。これだけだとちょっとわかりにくいので補足すると、留学から帰った主人公の健三は大学教師になり研究に没頭するのだが、縁を切ったはずの昔の養父島田が現れ金を無心してくるのである。引用文は、その島田からの指示で健三のもとに来た男との話し合いに、なかなか収まりがつかないということを述べているのである。
 これに対して「終息」は「終」という漢字が含まれているように、物事がおわること、やむことをいう。『日国』の引用例の一つ、司馬遼太郎の『美濃浪人』(1966年)は、「とりあえず下関海峡での対外戦を終熄(シュウソク)させようとした」
というものだが、戦争をおわらせるという内容である。
 これを新型コロナウィルス感染症に当てはめてみると、こういうことになるだろう。「収束」は感染者の数を小さくおさめるということで、感染者がまだ出ていたとしても新たな感染者は減少し始めている状態、「終息」は新規の感染者がほぼ出なくなった状態ということになるのではないだろうか。つまり、まずは「収束」を目指し、最終的には「終息」を目標にするということになるのではないか。
 このコラムが掲載されたころには、少しでも「収束」の見込みがついていることを願ってやまないのである。

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 心身の力のありったけを尽くして、何かを行うことを「心血を注ぐ」という。例えば、地理学者、志賀重昂(しがしげたか)が日本の風光について論じた『日本風景論』(1894年)にも、

 「一代の英物たる野中兼山が心血を澆(そそ)ぎて鑿通せし各処の溝渠運河は」(三)

とある。ここでは、江戸前期の土佐藩の家老野中兼山(のなかけんざん)が、まさに「心血をそそい」で完成させた治水灌漑工事のことを述べている。
 ところがこの「心血をそそぐ」を、「心血を傾ける」と言う人がいる。
 文化庁が2007(平成19)年度に行った「国語に関する世論調査」でも、「心血を注ぐ」を使う人が64.6パーセント、「心血を傾ける」を使う人が13.3パーセントと、「心血を傾ける」という人は、多くはないが存在することがわかる。しかもその調査では、「心血を傾ける」と答えた人は、50代と60歳以上になると、他の世代よりも多くなっている。
 「心血を傾ける」と言ってしまうのは、おそらく「心を傾ける」や「精魂(精根)を傾ける」といった表現との混同だろう。50歳代以上になると「心血を傾ける」が増えてくるのは、ことばをあいまいに覚えていて、他の表現と混同する人が多くなるせいなのかもしれない。
 私も人ごとではない。
 「心血を傾ける」は本来の言い方ではないため、『明鏡国語辞典』はこれを「誤り」としている。私も、「心血を傾ける」が本来の言い方ではないと認めるにやぶさかではないが、かといって『明鏡』のように「誤り」と断定することについては、いささかためらいがある。というのも、哲学者三木清の『語られざる哲学』(1919年)にこんな使用例があるからだ。

 「書籍の中でも偉大なる人々が心血を傾け尽して書いたものを顧みることは、旧思想との妥協者として譏られる恐れがあったので」

これ1例だけだった、つい筆が滑ったということも考えられるだろう。だが、他にも夢野久作の『木魂(すだま)』(1934年)という小説に、

 「心血を傾けて編纂しつつある『小学算術教科書』が思い通りに全国の津々浦々にまで普及した嬉しさや」

という例がある。夢野は他の作品では、「心血を傾注する」(『ドグラ・マグラ』1935年刊)とも書いている。また、明治時代のジャーナリスト鳥谷部春汀(とやべしゅんてい)は「心血を傾倒する」(『明治人物月旦』「大隈伯と故陸奥伯」1907年)と書いている。
 これらの例からわかることは、「心血を傾ける」あるいはそれに類似する言い方は、最近生まれた言い方ではないということである。
 実は、最初に示した志賀の『日本風景論』は1894年の刊行だが、これは『日本国語大辞典』の「心血を注ぐ」の項目で一番古い例として引用している内田魯庵(うちだろあん)の随筆『嚼氷冷語(しゃくひょうれいご)』(1899年)よりもさらに5年古い。だが、それとくらべて、『語られざる哲学』『木魂』はどうだろう。最大で40年しか違わない。明治から大正、昭和にかけての40年は、決して短くはないが、こと日本語に関しては、時代的に大きな断はないような気がする。50代以上、つまり私と同じ世代を擁護するわけではないが、「心血を傾ける」も誤用とはいえない気がするのである。

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