日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。

第265回
「粗辞」

 社員の結婚式でスピーチを頼まれたという知り合いの社長さんから、「最近“そじ”っていうことばをよく聞くんだけど、知らない?」と尋ねられた。
 “そじ”?
 知らないことばを聞くと、職業病ゆえか、同音の熟語を頭の中で検索してしまう。すぐに思い浮かんだのは「措辞」「素地」「楚辞」の3語なのだが、どれも結婚式とは関係なさそうだ。「措辞」はことばの使い方のことだし、「素地」は何かをするときの基礎という意味だし、「楚辞」に至っては中国古代の文学書の名前である。
 だが、もちろんそれらの語とはまったく違う、「粗品」の「粗」に「辞書」の「辞」と書く「粗辞」だというのである。スピーチや挨拶の最後に、「はなはだ粗辞ではございますが、ひとことご挨拶申し上げます」などと使うらしい。確かに「粗」という漢字には、「粗茶」「粗餐(さん)」のように贈り物に付けて、贈り主の謙遜(けんそん)の気持ちを表す意味がある。だから「粗辞」も自分の挨拶をへりくだる気持ちで言ったものだということはよく分かる。だが、私自身は最近結婚式に招待されることがめっきり減っていることもあって、初めて聞くことばであった。そのように答えると、その社長さんは「自分もスピーチで使いたいのだが、どの辞書にも載っていないことばなので、昔からあったことばなのだろうか」とかなり気になる様子であった。
 「粗辞」は少なくとも私がかかわった辞書には載せていないという妙な確信はあったのだが、念のためにいくつかの辞書を調べてみた。案の定『日本国語大辞典』はもとより、他社の中型の国語辞典や漢和辞典にも載っていない。だが、『明鏡国語辞典』(大修館)や『三省堂国語辞典』(三省堂)などといった新語に敏感な辞典には立項されていたのである。しかも、『明鏡国語辞典』の編者である元筑波大学長の北原保雄氏は、『辞書を知る』(国立国語研究所編)という冊子の中で、『明鏡国語辞典』の初版からではなく、初版の翌年に刊行された『同〔携帯版〕』で収録したという経緯を語っている。『明鏡』の「携帯版」の刊行は2003年なので、少なくとも「粗辞」はそれ以前から使われていたことになる。
 今後改定される国語辞典では「粗辞」を収録するものが増えてくることであろう。辞書にかかわる者としては、何時ごろからだれが使い始めたことばなのか、できれば知りたいところである。

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