日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。

第270回
“気づかない方言”の「みえる」

 辞書で見つけたことばを付せんに書いて辞書に貼る「辞書引き学習」を小学生に広めるため、この学習法の開発者である中部大学准教授深谷圭助氏と週末は全国各地を回っている。先日もたまたまひと月ほどの間に、愛知、岐阜、三重という東海三県を回る機会があった。
 その折にたびたび耳にしたのが、この地域の人たちがよく使う「みえる」ということばである。「みえる」と言っても、「猫は暗闇でも目が見える」のような、見ることができるという意味ではない。あるいは「あの人は年よりも若々しく見える」のような、そのように感じられるという意味でもない。
 「先生が黒板に図を描いてみえる」「この話はすでに新聞で読んでみえたとは思いますが」
などのように使うのである。東海三県ご出身の方の多くは、何の話だと疑問にお思いになるかもしれない。だが、千葉県出身の私にはまったくなじみのない「みえる」の使い方なのである。
 以前私が編集を担当した辞典に、『標準語引き 日本方言辞典』(佐藤亮一監修)という方言辞典がある。その辞典には都道府県別の方言概説を掲載しているのだが、その愛知県の解説に、「尊敬表現にはテミエルがよく使われる。ヨンデミエル(読んでおられる)、カイテミエル(書いておられる)。この用法は方言と気づいていない人が多い。」とある。
 また、三重県の解説にも、「北三重地方では敬語が多彩である。「居る」「来る」の尊敬語にゴザル、ミエル、オイデルがあり、尊敬表現の補助動詞としても使われる。テミエルは現在もよく使われる。カイテミエル(書いておられる)。」と書かれている。
 岐阜県に関してはこの辞典では「みえる」への言及はないのだが、別の辞典(『日本語便利辞典』)で都道府県別の代表的な方言を10語ずつ選定した方言集を掲載したことがある。それには、岐阜、愛知、三重という東海三県でいずれも「みえる」が選ばれている。ちなみに岐阜県の解説は以下のような内容だ。
 「みえる いらっしゃる。「山田さんはみえますか(山田さんはいらっしゃいますか)」「明日はみえますか(明日はおいでになりますか)」【補注】敬語表現として公式の場でも使われるため、多くの人が共通語だと意識している。 」
 以上のことからもおわかりのように、この「みえる」は東海三県では共通語だと意識されている、いわゆる“気づかない方言”なのである。
 このような「みえる」の用法がなぜ生まれたのかというと、「方言チャート」でおなじみの東京女子大学教授の篠崎晃一氏は「共通語の『見える』は『来る』の尊敬語として『先生がみえる』『社長がおみえになる』のように使われるが、その用法が広まったわけだ。」と説明している(篠崎晃一+毎日新聞社『出身地がわかる!気づかない方言』)。同書によれば「見る」の場合の尊敬表現は「見てみえる」となるそうだからおもしろい。“気づかない方言”はこのような文法的なパターンだとさらに気づかれにくくなるらしい。
 第77回で取り上げた「はぐる」は私にとっての“気づかない方言”で、このような自分自身の“気づかない方言”を気づかされたときは、気恥ずかしさの入り交じった驚きがある。一方、人のそれに気づいたときは、なぜか得したようなちょっぴり温かい気持ちになる。

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