日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。

第272回
「すし」の表記は地方によって異なる

 好きな食べ物は?と聞かれたら、間違いなく「すし」を挙げると思う。仕事で地方に出かけたときも「すし店」に立ち寄ることが多い。
 この「すし」だが、店名にするときの表記が、地方によって違いがあることをご存じだろうか。私がこのことを知ったのは、第218回「『谷』の音と訓」のときも紹介した笹原宏之氏(早稲田大学教授)の『方言漢字』という本からである。
 「すし」の表記は、「鮨」「寿司」「寿し」「鮓」「すし」が大半であろう。「すし」は元来、魚介類を塩蔵して自然発酵させた「熟(な)れずし」だったということはご存じだと思う。平安中期の法典である『延喜(えんぎ)式』には、現在も「熟れずし」の代表格と言える近江の鮒(ふな)ずしも出てくる。
 現在のような「握りずし」が登場するのは、江戸時代の後期文化・文政年間(1804~30)頃で、主に江戸で大流行したようである。大坂(大阪)でも文政末には握りずしの店が出現したが、ほとんど流行らなかったらしい。かわりに、具を酢飯と混ぜて蒸す蒸鮨や、押鮨が主流であったという。関西では今でも蒸鮨や押鮨の店は多いのではないだろうか。
 その表記だが、平安中期の漢和辞書『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)〔十巻本〕』に「鮨〈略〉和名須之 鮓属也」とあることから、「鮨」と「鮓」は同義に用いられて考えられている。ただし、白川静の『字通』には、「鮨」は「うおびしお、魚の塩から」、「鮓」は「塩・米などで酵させたさかな」とあるように意味が異なることから、同じ「すし」でも調理法が異なっていた可能性もある。
 「寿司」という表記は、縁起をかついだ当て字と考えられていて、明治以降に生まれたもののようだ。
 さて、その「すし」の表記の地域差だが、前掲の『方言漢字』には2006年のタウンページに基づいて作成した県別の「すし店名の漢字表記の種類」という興味深い日本地図が掲載されている。そこで取り上げられた表記は、「鮨」「鮓」「寿司」「寿し」の四種である。
 それによると、すべての都道府県で「寿司」という表記がいちばん多いのだが、北海道、富山、石川、福井、島根、山口、香川、徳島、愛媛、高知、佐賀は「寿し」のほうが多い。「鮨」は、この表記が一番多い都道府県はひとつもないが、どちらかと言えば、東日本のほうが西日本よりもその割合が多いようだ。たとえば、分母の数が異なるので単純な比較はできないかもしれないが、「鮨」の割合は東京が34.3%なのに対して、大阪は12.1%である。ちなみに、「寿司」は東京53.6%、大阪61.7%である。「鮓」は全国的にも少数であるが、奈良6.6%、京都6.4%、大阪4%と近畿圏がやや多いようだ。東京は0.7%なのでその表記を使った店を探すのはけっこうたいへんかもしれない。面白いことに北海道は、「鮨」31.7%、「寿司」32.8%、「寿し」35.2%と「鮨」「寿司」「寿し」の表記がほぼ同じような割合になっている。
 地方で「すし店」に行く楽しみがひとつ増えたようだ。

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