第280回
布団は「しく」もの? 「ひく」もの?
2015年09月21日
まずは以下の文章をお読みいただきたい。
「しゃべらぬじいさんの、チェーン=ストークス呼吸(大きくなったり静止したりする不規則な呼吸)を聞きながら床の上に布団をひき、じいさんの手の脈を時々取ってみながら」
この文章を書いた徳永進氏は、医師でノンフィクション作家でもある方だという。この文章は、『臨床に吹く風』(1986年)というエッセイ集による。いかがであろうか、この文章を読んで何か気になる部分はないであろうか。私はというと、「床の上に布団をひき」という部分が引っかかるのである。自分だったら布団は「ひく」ではなく、「しく」と書くはずだから。
確かに私の周りにも「布団をひく」と言っている人はいる。しかし、それは口頭語なのかと思っていたのだが、どうやらそうではなかったらしい。医師である方も使うということは、医療関係者の間でも「布団をひく」はかなり広まっているのかもしれない。
結論を先に述べると、夜具としての布団を平らに広げることは、「布団をしく」というのが正しく、「ひく」は誤りである。
「しく」は「敷く」で、物を平らに延べ広げるという意味である。布団だけでなく、絨毯(じゅうたん)、畳、茣蓙(ござ)、わら、新聞紙、シートなどを平らに広げる場合はすべてこの語を使う。
一方「ひく(引く)」にはこの意味はなく、小型の国語辞典でも「ひく」にこの意味を載せているものはない。
ただ、『日本国語大辞典 第2版』には「引く」の項目に、「一面に敷きつめる。上方で、『敷く』ことをいう」という興味深い意味が載せられている。
そして、以下のような用例が引用されている。
「前栽うゑさせたまひて砂ごひかせけるに、家人にもあらぬ人の砂子おこせたれば」(『伊勢集』)
伊勢は平安前期の女流歌人で、宇多天皇の中宮温子(おんし)に仕えた。「前栽(せんざい)」は、庭前に植え込むための草木で、「砂ご」は砂のことである。ここでは「砂を敷(し)く 」ではなく「砂をひく」なのである。
さらにもう一例、
「ひく 布団抔(など)敷をひくといふ」(『浪花聞書』)
『浪花聞書(なにわききがき)』は江戸後期の方言辞典で、大坂方言や当時の風俗語などを江戸語と対照させたものである。「しく(敷く)」ことを「ひく」と言うのはもちろん大坂のことで、「布団をひく」のような言い方は古くは大坂方言だったことがわかる。
だが、最近では大阪出身者以外でも「布団をひく」と言う人はかなりいる気がする。なぜだろうか。
考えられることは『浪花聞書』にもあるように、「ひ」と「し」の発音が交替するという現象である。たとえば大阪弁ではヒ チヤ(質屋)、ヒ( ツコイ(しつこい)、シ( タイ(額)、オシ( タシ(お浸し)などのような発音がよく聞かれるが、これと同様の現象が東京弁においても存在するからである。また、その発音の混同により、「しく」を方言的だと考え「ひく」のほうが共通語だと誤解して使っているということもあるのかもしれない。さらに、物を平らに延べ広げる動作がその物を自分の方に引き寄せると考えて、「ひく」と言っている可能性も考えられる。
いずれにしても「布団をひく」は誤った言い方であるため、よく聞かれる言い方ではあるが、一般向けの国語辞典の「ひく」の項目にこの意味が載るということはないのである。
「しゃべらぬじいさんの、チェーン=ストークス呼吸(大きくなったり静止したりする不規則な呼吸)を聞きながら床の上に布団をひき、じいさんの手の脈を時々取ってみながら」
この文章を書いた徳永進氏は、医師でノンフィクション作家でもある方だという。この文章は、『臨床に吹く風』(1986年)というエッセイ集による。いかがであろうか、この文章を読んで何か気になる部分はないであろうか。私はというと、「床の上に布団をひき」という部分が引っかかるのである。自分だったら布団は「ひく」ではなく、「しく」と書くはずだから。
確かに私の周りにも「布団をひく」と言っている人はいる。しかし、それは口頭語なのかと思っていたのだが、どうやらそうではなかったらしい。医師である方も使うということは、医療関係者の間でも「布団をひく」はかなり広まっているのかもしれない。
結論を先に述べると、夜具としての布団を平らに広げることは、「布団をしく」というのが正しく、「ひく」は誤りである。
「しく」は「敷く」で、物を平らに延べ広げるという意味である。布団だけでなく、絨毯(じゅうたん)、畳、茣蓙(ござ)、わら、新聞紙、シートなどを平らに広げる場合はすべてこの語を使う。
一方「ひく(引く)」にはこの意味はなく、小型の国語辞典でも「ひく」にこの意味を載せているものはない。
ただ、『日本国語大辞典 第2版』には「引く」の項目に、「一面に敷きつめる。上方で、『敷く』ことをいう」という興味深い意味が載せられている。
そして、以下のような用例が引用されている。
「前栽うゑさせたまひて砂ごひかせけるに、家人にもあらぬ人の砂子おこせたれば」(『伊勢集』)
伊勢は平安前期の女流歌人で、宇多天皇の中宮温子(おんし)に仕えた。「前栽(せんざい)」は、庭前に植え込むための草木で、「砂ご」は砂のことである。ここでは「砂を敷(し)く 」ではなく「砂をひく」なのである。
さらにもう一例、
「ひく 布団抔(など)敷をひくといふ」(『浪花聞書』)
『浪花聞書(なにわききがき)』は江戸後期の方言辞典で、大坂方言や当時の風俗語などを江戸語と対照させたものである。「しく(敷く)」ことを「ひく」と言うのはもちろん大坂のことで、「布団をひく」のような言い方は古くは大坂方言だったことがわかる。
だが、最近では大阪出身者以外でも「布団をひく」と言う人はかなりいる気がする。なぜだろうか。
考えられることは『浪花聞書』にもあるように、「ひ」と「し」の発音が交替するという現象である。たとえば大阪弁では
いずれにしても「布団をひく」は誤った言い方であるため、よく聞かれる言い方ではあるが、一般向けの国語辞典の「ひく」の項目にこの意味が載るということはないのである。
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