第287回
「味わう」か「味あう」か?
2015年11月09日
「秋の味覚を味あわないなんてもったいない」という人がいるらしい。いったいこれの何が問題なのかお分かりであろうか。「味あう」の部分である。言うまでもなく「味わう」が正しく、「せっかくの秋の味覚を味わわないなんてもったいない」と言うべきなのである。
本来の言い方である「味わう」は、古くは「味はふ」と表記されてきた。「はふ」は、動詞「はう(這・延)」から生まれた語だと考えられていて、名詞などについて、その状態が進展する、あるいは、その状態を進展させる意を表わす接尾語である。「にぎわう」の「わう(はふ)」も同様である。
「味わう」の例は結構古くからあり、平安時代の漢和辞書『類聚名義抄(観智院本)』にも「味 アチハフ」とある。
仮名遣いに関して言えば、「あぢはふ」の「はふ」が「わう」になるのは自然の流れであるため「味わう」と変化したのだが、いつの頃からか「味あう」という別の発音が生まれる。「はふ」は「アウ」という発音にもなりやすいようで、「にぎはう(賑)」も本来は「にぎわう」だが、「にぎあう」も見られる。
「味あう」が生まれた時期は、「味はふ」が「味わう」になってからで、比較的最近のことだと考えられている。
ところが、『日本国語大辞典(日国)』には本来の言い方ではない「味あう」が見出しとして立てられていて、しかも以下のようなかなり古い例が2例、載せられているのである。
A彰考館本寝覚記〔鎌倉末〕下「くちにあぢあふ所をばなむべからず」
B俳諧・口真似草〔1656〕一「あぢあふやひとくひと口鶯菜〈吉連〉」
Aの『彰考館本寝覚記』の成立は鎌倉末とあるが、写本で伝わることの多い古典の場合、仮名遣いはそれが写された時代の仮名遣いが反映されている可能性も否定できない。この『彰考館本寝覚記』近世初期の写本だと推定されている。
ところが『日国』の「味わう」には、
*ねさめの記〔鎌倉末〕三「口にあぢはふ所をなむべからず」
というほとんど同じ例が引用されている。実はこの『ねさめの記』とは「寝覚記」の別の写本なのである。こちらの底本は、石川県立図書館蔵本で近世末期の写本である。
Bの俳諧『口真似草』の「ひとく」はウグイスの鳴き声。「うぐいすな」はコマツナ、アブラナなどのまだ若くて小さい菜のことである。
Aの例は誤写の可能性も否定できないが、Bの例は明らかに「味あう」の例であろう。だとすると新しいと思われていた「味あう」は、すでに江戸時代にはそう言っていた人がいたということができそうである。
もう一つ、江戸時代のものではないが、「味あう」は「味合う」だと思っている用例を紹介しておこう。中里介山『大菩薩峠』(1913~41年)の「白根山の巻」にある例である。
「大門口(おおもんぐち)の播磨屋(はりまや)で、二合の酒にあぶたま(=油揚げを細く切り、とき卵を混ぜて、しょうゆで煮たもの)で飯を食って、勘定が百五十文、そいつがまた俺には忘れられねえ味合だ」
『大菩薩峠』も決して新しい使用例とは言えない。
ことばを言いやすいように変化させてしまうのは決して現代人の専売特許ではなく、古くから行われてきたということなのである。
本来の言い方である「味わう」は、古くは「味はふ」と表記されてきた。「はふ」は、動詞「はう(這・延)」から生まれた語だと考えられていて、名詞などについて、その状態が進展する、あるいは、その状態を進展させる意を表わす接尾語である。「にぎわう」の「わう(はふ)」も同様である。
「味わう」の例は結構古くからあり、平安時代の漢和辞書『類聚名義抄(観智院本)』にも「味 アチハフ」とある。
仮名遣いに関して言えば、「あぢはふ」の「はふ」が「わう」になるのは自然の流れであるため「味わう」と変化したのだが、いつの頃からか「味あう」という別の発音が生まれる。「はふ」は「アウ」という発音にもなりやすいようで、「にぎはう(賑)」も本来は「にぎわう」だが、「にぎあう」も見られる。
「味あう」が生まれた時期は、「味はふ」が「味わう」になってからで、比較的最近のことだと考えられている。
ところが、『日本国語大辞典(日国)』には本来の言い方ではない「味あう」が見出しとして立てられていて、しかも以下のようなかなり古い例が2例、載せられているのである。
A彰考館本寝覚記〔鎌倉末〕下「くちにあぢあふ所をばなむべからず」
B俳諧・口真似草〔1656〕一「あぢあふやひとくひと口鶯菜〈吉連〉」
Aの『彰考館本寝覚記』の成立は鎌倉末とあるが、写本で伝わることの多い古典の場合、仮名遣いはそれが写された時代の仮名遣いが反映されている可能性も否定できない。この『彰考館本寝覚記』近世初期の写本だと推定されている。
ところが『日国』の「味わう」には、
*ねさめの記〔鎌倉末〕三「口にあぢはふ所をなむべからず」
というほとんど同じ例が引用されている。実はこの『ねさめの記』とは「寝覚記」の別の写本なのである。こちらの底本は、石川県立図書館蔵本で近世末期の写本である。
Bの俳諧『口真似草』の「ひとく」はウグイスの鳴き声。「うぐいすな」はコマツナ、アブラナなどのまだ若くて小さい菜のことである。
Aの例は誤写の可能性も否定できないが、Bの例は明らかに「味あう」の例であろう。だとすると新しいと思われていた「味あう」は、すでに江戸時代にはそう言っていた人がいたということができそうである。
もう一つ、江戸時代のものではないが、「味あう」は「味合う」だと思っている用例を紹介しておこう。中里介山『大菩薩峠』(1913~41年)の「白根山の巻」にある例である。
「大門口(おおもんぐち)の播磨屋(はりまや)で、二合の酒にあぶたま(=油揚げを細く切り、とき卵を混ぜて、しょうゆで煮たもの)で飯を食って、勘定が百五十文、そいつがまた俺には忘れられねえ味合だ」
『大菩薩峠』も決して新しい使用例とは言えない。
ことばを言いやすいように変化させてしまうのは決して現代人の専売特許ではなく、古くから行われてきたということなのである。
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