日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。

第351回
「博士」は「ハカセ」?「ハクシ」?

 「医学博士」「農学博士」などと言うときの「博士」と、「昆虫博士」「漢字博士」などの「博士」とはどう違うのか、そんなことをお考えになったことはあるだろうか。
 前者は学位の呼び方、後者は物知りのことと、意味が違うのである。
 また、意味の違いばかりではなく、学位の正式な呼び方は「はくし」、ある方面の知識が豊富な人のことは「はかせ」と、使い分けがされている。ただし、学位の呼び名を俗に「はかせ」と言っている人もいないわけではないが。「博士号」や「博士課程」は、「はかせごう」「はかせかてい」のほうが優勢かもしれない。
 「博士」を「はかせ」あるいは「はくし」と読むことは、平安時代から行われていた。ただし、「博」の字音は「ハク」「バク」で、「ハカ」という読みはない。それは「士」も同様で、「士」の字音は「シ」「ジ」で、「セ」はない。そのため、『日本国語大辞典』(『日国』)では、

 「応神以降、『博士』は百済との交渉に関して記録されているので、百済の制度に関係があると思われ、『はかせ』も百済の音かもしれない。」 

と推定している。「百済との交渉」というのは、古代朝鮮の王朝・百済(くだら・ひゃくさい)から送られてきた学問技術の専門家のことで、五経博士(ごきょうはかせ)・医博士(くすしのはかせ)・易博士(やくのはかせ)・暦博士(こよみのはかせ)などである。
 これが後に令制で、特定の学術・技芸に専門的に従事し、かつその分野の教育を担当する職の総称となる。「陰陽博士(おんみょうはかせ・おんようはかせ)」「文章博士(もんじょうはかせ)」などの名称は、お聞きになったことがあるかもしれない。
 明治時代になり1887(明治20)年に「学位令」が公布され、学位を「博士」「大博士」の2等に分けることが制定されたのだが、この「博士」は「はくし」と読むのが正しいとされたのである。
 『日国』に、その公布の翌年に「金城だより」という新聞に掲載された、ちょっと面白い内容の記事が引用されているので紹介しておこう。

 「学位令にある博士と言ふ文字の発音方は、従来唱へ来りたる如くハカセと読む事と思ひの外、ハクシと発音する事になり居る由」(明治21年〔1888〕6月21日)

 「金城だより」というのは愛知県で発行された新聞で、現在の中日新聞の前身である。当時の人たちの感覚では、「はかせ」の読みの方がふつうだったようである。

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