第379回
「うまい」と「おいしい」

 かつてコピーライターの糸井重里さんが作った「おいしい生活」という西武百貨店のキャッチコピーが、一世を風靡(ふうび)したことがある(1982年)。コピーで使われたことばを説明するのはやぼな話なのだが、この「おいしい」とは、豊かな暮らしという意味なのであろう。
 「おいしい」はもともとは、物の味のよいことをいう語であるが、最初から「おいしい」の形だったわけではない。元来は「いしい」の形で使われていたのである。「いしい」の原義は、よい、好ましいということだが、この場合は味がよいという意味の女房詞で、これに接頭語「お」が付いたのである。
 「いしい」については、キリシタン宣教師の日本語習得のために編集された『日葡辞書(にっぽじしょ)』(1603~04)にも載せられているのだが、ポルトガル語による説明を翻訳すると、「おいしい、あるいは、良い味のもの。この語がこの意味で用いられる時は、通常女性が用いる」(『日本国語大辞典』)とある。つまり男性が「おいしい」を使うことはその時代にはあまりなかったのであろう。
 一方の「うまい」も古くからあることばで、『万葉集』に以下のような長歌の使用例がある。
 「飯(いひ)はめど うまくもあらず 行き行けど 安くもあらず 茜(あかね)さす 君が心し 忘れかねつも」(巻16・3857)
 「夫君を恋い慕う歌一首」とある短い長歌で、ご飯を食べてもおいしくないし、歩き回っても心はやすまらない。あなたのお心が忘れられませんという意味である。現在でも恋い慕うあまり食が進まないということはあるだろう。
 また、残された例文から考えられることは、「うまい」の方が「いしい」「おいしい」よりも古くからある語だということである。ただ、「おいしい」が女房詞に由来する語だったこともあって、現在でも女性は「うまい」より「おいしい」を使う傾向が強いであろう。そして一般にも、「うまい」よりも「おいしい」の方がよりも丁寧な表現として理解されていると思われる。
 なお、「おいしい」を漢字で「美味しい」と書くのは当て字である。「美味」は「びみ」だが、「うまい」もこの字を使って「美味い」と当てていた。「美味い」と書かれた例は江戸時代からみられる。『日本国語大辞典』引用している以下の例がそれである。

*浮世草子・風流曲三味線〔1706〕四・一「口栄耀(くちえよう)にして朝夕美味ひもの好(ごのみ)をし」

 「口栄耀」は、食べるものに贅沢(ぜいたく)を尽くすこと、つまり口のおごっているさまをいう語である。
 「美味しい」の表記が現れるのは、明治になってからのようだ。たとえば、小説家で翻訳家でもあった内田魯庵の短編小説集『社会百面相』(1902年)に収められた『新妻君』という短編の以下のような例がある。

 「手製の氷菓子(アイスクリーム)を薦(すす)めて『家拵(うちごし)らへだから美味(おいし)くはないのよ』」

 「うまい」と「おいしい」とで受ける印象が違うのは、それぞれの語に以上のような歴史があったからである。

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