第380回
「秋波」はだれに送るのか?

 先ずは『日本国語大辞典(日国)』の「秋波を送る」という項目の語釈をお読みいただきたい。

 「女性が、相手の関心を引こうとして、こびを含んだ目つきで見る」

 さらにここには用例が3つ示されているのだが、そのうちのわかりやすい例をひとつ引用する。

*野分〔1907〕〈夏目漱石〉八「黒縮緬へ三つ柏の紋をつけた意気な芸者がすれ違ふときに、高柳君の方に一瞥(べつ)の秋波(シウハ)を送(オク)った」

 『日国』の語釈の内容通り、この夏目漱石の『野分』の例でも、高柳君に「秋波」を送ったのは、女性である芸者だ。
 では次に以下の文章をお読みいただきたい。劇作家岸田国士の『演劇漫話』(1926年)からの例である。

 「俗衆は、自分の観てゐる芝居の中に、自分の知つてゐる型を見出さなければ満足しないといふ恐ろしい習慣を失はずにゐるのです。新劇は、さういふ種類の観客に秋波を送つてはなりません」

 この例で「秋波」を送っているのは、女性ではない。それどころか新劇という、人格のないものなのである。このような例があるということは、『日国』の語釈が間違っているということなのであろうか。
 「秋波」の本来の意味は、美人の涼しげな美しい目もとという意味で、そこから、女性のこびを表わす色っぽい目つきのことをいう。従って「秋波を送る」は、女性の流し目のことをいうのである。
 だが最近では、岸田国士の例にもあるように、女性に限らず他人の関心を引くために媚びを売るという意味で使っている例が増えている。しかも面白いことに、そういった使用例が比較的目につくのは、政治の世界なのである。国会の会議録を見ると、「秋波」を送っている主体も、送られている対象も、政治家や政治団体、企業であったり、外国であったりする。あまりつやっぽい話ではなく、どちらかというと生々しい。
 そのようなこともあって、小型の国語辞典の中では、『三省堂国語辞典』『現代国語例解辞典』が男女間に限らず他人の関心を得るために媚びを得るという意味を載せている。さらに前者ではその行為は「下心をもって」だとまで踏み込んで説明している。
 このような新しい意味での「秋波」が広まるようになったのは、やはり意味が拡大しているということなのであろうが、本来の意味は知っていてもよさそうな気がする。

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