第431回
『牛肉と馬鈴薯』

 今回のコラムのタイトルにした『牛肉と馬鈴薯』は、言うまでもなく国木田独歩(くにきだどっぽ)作の小説のことである。これを皆さんは、「牛肉」はいいとして、「馬鈴薯」を何と読んだだろうか。「バレイショ」?「ジャガイモ」?
 正解は『牛肉とジャガイモ』である。えーッ!と思ったかたもいるかもしれない。かくいう私も、長い間『牛肉とバレイショ』と読んでいたことをここで告白しておく。「ジャガイモ」が正解だと知ったのは、『日本国語大辞典(日国)』の編集をしていたときのことだから、けっこういい年になってからである。『日国』のために用例を採用したすべての文献の読み方を調べていて、「ジャガイモ」だと知りかなりな衝撃を受けた。勝手な語感でジャガイモには申し訳ないのだが、バレイショの方が高尚なイメージで、作品にふさわしいと感じていたからである。『牛肉と馬鈴薯』は、独歩の哲学や、人生観をテーマにした小説で、東京の芝区桜田本郷町の明治倶楽部(くらぶ)に集まった仲間が、現実主義的な考えを牛肉に、理想主義的な考えを馬鈴薯にたとえて議論するという内容である。
 ただ言い訳めくが、タイトルからは「馬鈴薯」を何と読むかはわからない。この小説は1901年11月に雑誌『小天地』に発表され、05年刊行の『独歩集』(近事画報社)に収録された。『独歩集』は総ルビで、小説の中には「馬鈴薯(じゃがいも)」と振り仮名がついている。だから、「ジャガイモ」なのである。現在この本は、国立国会図書館デジタルコレクションで確認できる。
 「じゃがいも」というのは、一六世紀末にジャガタラ(ジャカルタの古名)から長崎にもたらされたところからの名で、「ジャガタラ芋」の略である。「馬鈴薯」の方は、駅馬の鈴のように実がなるところからかという、『広辞苑』の編者で知られる新村出(しんむらいずる)の説がある。
 ところで、『独歩集』所収の『牛肉と馬鈴薯』には、「馬鈴薯」に何か所か「いも」という振り仮名も付けられている。私だけがそう感じるのかもしれないが、これはちょっと興味深い。というのも、私にとって「いも」とは、サツマイモのことだからである。独歩は私と同じ千葉県(銚子)の生まれで、5歳のときに山口に移住している。その後、中学を中退して上京し、再び山口に戻ったこともあったようだが、大半は東京で暮らしている。だとすると、独歩はジャガイモをイモと呼ぶ地域には居住していなかったはずなのだ。
 何を根拠にそのようなことを言っているのかというと、かつて私が編集を担当した『お国ことばを知る 方言の地図帳』(佐藤亮一編)という本に、「イモの意味」と名付けた地図があるからで、この地図によると、イモということばで連想する芋の種類が、地域によって異なることがわかる。北海道、東北、長野などでは、イモはジャガイモのことであり、独歩にかかわりのある千葉や山口では、サツマイモのことなのである。ただ、東京も含めて関東はどちらかというとサツマイモよりもサトイモの方が多い。
 『独歩集』のルビは、解明する手立てはないものの、独歩本人が必ずしもかかわっていないのではないかというのが私の想像である。だが、だからといって、『牛肉と馬鈴薯』の「馬鈴薯」が「じゃがいも」であることは揺るぎないのだろうが。
 なお、以下は蛇足である。『お国ことばを知る 方言の地図帳』は、ジャパンナレッジのJKパーソナル+Rの契約で読むことができる。また、講談社の学術文庫にもなっている(『方言の地図帳』2019年)。

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